神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

コリントス(24):アリステウス(1)

ポテイダイア人およびアリステウス麾下のペロポネーソスの諸兵は、アテーナイ勢の進撃を待ちもうけて、オリュントス寄りの陸峡地帯に陣地をもうけ、ポテイダイアの城郭の外側にアゴラ(=交易所)を設置した。さて同盟軍の将士らは、全陸上部隊の総指揮官にアリステウスを選挙し、また騎兵部隊の長には(マケドニア王)ペルディッカースをえらんだ。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1・62 から

陸上部隊の総指揮官に選ばれたというのですから、アリステウスの軍事的な才能はすでに広く知られていたのでしょう。

アリステウスの作戦計画は、アテーナイ勢が進軍してくれば、自分は配下の将士らとともに陸橋地帯の警備を担当し、カルキディケー人をはじめ陸峡の北側の同盟諸兵はペルディッカースの二百騎の騎兵隊とともにオリュントス城内にて待機する。アテーナイ勢がさらに陸峡地帯に戦列をすすめたとき、オリュントスの伏兵はその背から襲いかかって敵軍を挟撃する、というのであった。


同上

オリュントスはポテイダイアの北側にあった町です。しかし、アテーナイ側はそのようなことを予期して、自分たちに同行しているマケドニアの騎兵隊を(つまりマケドニアの騎兵隊はポテイダイア側にもアテーナイ側にもいたのでした)オリュントス附近に配置し、オリュントスから援軍が来襲するのを防がせました。

やがてポテイダイアのすぐ北で両軍が衝突すると

アリステウス自身が指揮をとっていた一翼とその近辺のコリントス人やその他の精兵は、正面に対する敵陣を突崩し、逃げるを追ってかなりの距離に及んで前進した。しかし残余のポテイダイア・ペロポネーソス諸兵は、アテーナイ勢に押しまくられて城壁内に逃げおちた。


同上

という結果になってしまいました。この時、かねてからの打合せ通りオリュントスから援軍が発進したのですが、これはアテーナイ側についていたマケドニアの騎兵隊が道をふさいだため思うように進軍出来ませんでした。アリステウスは

残りの味方がことごとく敗退したのを見て、ここにいたってオリュントス方面にむかうべきかポテイダイア内に逃げ込むべきか、いずれに進んで突破口を求めればよいかと途方にくれた。結局、配下の将兵を密集体系にまとめて駈足でポテイダイアにむかって敵陣を突破することに決め、岸壁下の荒磯ぞいに、攻撃の雨をくぐって辛うじて血路をひらいた。その間少数の犠牲者をだしたが、大部分のものを救うことができた。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1・63 から

このあとアテーナイはさらに援軍をポテイダイアに送り、攻城壁を南北両面に築くとともに海上を軍船によって封鎖しました。

ポテイダイアが壁づめに遮断されるにいたって、アリステウスは、ペロポネーソスからの援軍でも到着するか、望外の変事でも生じない限り、城市を救済できる望みはないとして、次の提案をおこなった。籠城が長びいても糧食が一日でも長く続くように、五百名の守備兵だけをあとに残し、のこりの市民は皆、順風を見はからって海上への脱出を試みる、もちろんかれ自身は残留隊の一人としてとどまる用意がある、と。しかしこの提案がうけいれられなかったので、かれは現状下に必要な手段を講じ外部の勢力と提携して出来るかぎりの打開策をすすめるために、アテーナイ勢の看視をくぐって海上への脱出行をおこなった。そしてカルキディケー住民たちの間に留って諸方での戦闘に参加し、なかんずくセルミュレー人のポリスに伏兵攻撃をかけて敵兵多勢を斃した。またペロポネーソス諸地方にも働きかけて、救援を仰ぐために奔走した。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1・65 から

一方コリントス本国では次のような動きがありました。

ポテイダイアの籠城を本国のコリントス人は手をつかねて見ていたわけではない、かれらはかの都市の安否、そこに立籠ったコリントス市民たちの安否をいたく心配した。そこでただちに同盟諸国にラケダイモーン(スパルタのこと)に集るように呼びかけた。自らラケダイモーンに赴いたコリントス代表は、アテーナイ人がすでに和約を蹂躙し、ペロポネーソスの権利を侵害している旨をあげて、声を大にしてアテーナイを非難した。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1・67 から

コリントスの代表はこの会議において、アテーナイへの開戦をスパルタに迫りました。