神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

コリントス(14):キュプセロス

さて、前回ご紹介した話に続けてヘーロドトスは

 エエティオンのその子供は、その後すくすくと育ち、櫃(キュプセレー)によって難を免れたというので、キュプセロスと名附けられた。


ヘロドトス著「歴史」巻5、92 から

と書いています。しかし、ラブダの子供がすくすくと育っているのを見たならば、バッキアダイの人々は殺害に失敗したことに気づきそうなものです。そして次の手を打ってきそうなものです。しかし実際には、キュプセロスは成人してコリントスのポレマルコス(軍事指導者)にまでなったのですから、前回ご紹介した伝説がいい加減な話であることが分かります。しかし、生まれたばかりのキュプセロスが櫃に隠されてバッキアダイの手を逃れたという話は、キュプセロスの子供たちによっても信じられていたようで、オリュンピアにはキュプセロスの子供たちが奉納した櫃がありました。この話は、もともとキュプセロスが神々の加護を得ている証拠として、その一族によって作られ宣伝された話なのかもしれません。


さて、キュプセロスがポレマルコスの地位にあったとき、コリントスアルゴスとケルキューラとの戦争に巻き込まれていました。ケルキューラはコリントスの植民市ですが、なぜか古くから母市コリントスに反抗的でした。そしてこの時もコリントスと戦っていました。ちなみにトゥーキュディデースによればこの頃(BC 664年頃)、古代ギリシアの最古の海戦がコリントスとケルキューラの間で行われたということです。コリントスの人々はこの戦争のことで自分たちの支配者バッキアダイに不満を持っていました。BC 657年頃、キュプセロスはポレマルコスとしての兵士たちへの影響力を利用して、バッキアダイを追放しました。バッキアダイは、コリントスの植民市であるケルキューラや、シケリアのシュラクーサイへ、あるいはコリントスの植民市ではありませんがスパルタへ、さらには北イタリアに住んでいたエトルリア人のところへも移住しました。エトルリア人の町タルクィニアに移住したのはデマラトスという人物で、彼とエトルリア人の女性との間に生れた子供タルクィニウス・プリスクスはローマに移住して、なんとローマの王になりました。ちなみに当時のローマは王制でしたが、世襲制ではありませんでした。


さて、話をキュプセロスに戻します。ヘーロドトスが、あるコリントス人の話として伝える話では、以下のようになっています。

このキュプセロスが成人後、デルポイで神託を乞うたところ、大層縁起のよい託宣があったので、この託宣を頼りに事を起し、コリントスを手中に収めてしまった。(中略)
独裁者となってからのキュプセロスがどんな人間であったかと申すと、多数のコリントス人を追放したり、財産を没収したりしたが、彼のために生命を奪われたものの数は、さらに遥かに大きかったのだ。


同上

しかし、実際にはキュプセロスの統治はそれほど無法なものではなかったようです。アリストテレースの「政治学」によれば、キュプセロスは他の僭主のように自分の周りに護衛兵を置いたりはしなかったそうです。

キュプセロスは民衆の気に入ることを務めた人で、彼の支配の期間を通じて常に護衛兵を持たなかった・・・・


アリストテレース政治学」山本光雄訳 第5巻12章3節より


また、日本語版のウィキペディアの「キュプセロス」の項によれば、キュプセロスはバッキアダイを追放する際、ゼウス神に市の政権を握ったらコリントス人の全財産を奉納すると約束したそうです。そして見事政権を奪い取ることが出来たので、彼は市民に財産表を書かせてその10分の1を取り上げて奉納し、それを10年間繰り返してゼウス神との約束を果たしました。この話はアリストテレースの「経済学」という本に書かれているそうです。(細かい話になりますが、この「経済学」という本はアリストテレースの真作とは一般には認められていません。誰か別の人が書いたものです。)



キュプセロスは、自分の息子のペリアンドロスを隣国エピダウロスの僭主プロクレースの娘リューシデーと結婚させ、自分の娘(名前は知られていないようです)をアテーナイの有力貴族ピライダイ家のアガメストールの許に嫁がせました。別の息子ゴルゴスには、ギリシア北西部にアンブラキアとアナクトリオンという2つの植民市を作らせました。この植民市はコリントスギリシア北方のエーペイロスとの間の貿易の中継基地になりました。そのほか、イタリアとシケリアの植民市との貿易を増やして、コリントスの産業を栄えさせました。キュプセロスは30年間コリントスを統治し、無事に一生を終えました。その後を息子のペリアンドロスが継ぎました。