神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エリュトライ(8):ペルシア戦争

その後、ペルシアはギリシア本土に侵攻します。BC 490年の1回目の侵攻にエリュトライが従軍を強いられたかどうかよく分かりませんが、BC 480年の2回目の侵攻にはおそらく従軍を強いられたと想像します。北から侵入してきたペルシア水軍とギリシア諸都市の連合水軍は、エウボイア島の北端アルテミシオンでにらみ合いました。しかし、陸戦でペルシアがテルモピュライの峠を突破したため、ギリシア連合水軍はアテーナイ沿岸近くのサラミース島まで撤退することになりました。この撤退にあたってギリシアの智将テミストクレースは、ペルシア軍が見ることを想定して岩壁に以下の文章を刻んで残しました。


(右:テミストクレース)

イオニア人諸君(エリュトライの人々もイオニア人でした)、父祖の地に兵を進め、ギリシアを服属せしめんとするそなたらの行動は正しくない。そなたらにとって最善の道はわが方の味方となることである。それができぬというのならば、今からでもわれわれとの戦いには加わらぬようにし、カリア人にもそらたらと同様の行動をとるように頼んでもらいたい。もしまた、敵の束縛があまりに強く離反ままならず、右のいずれの行動をもとり得ぬのなら、そなたらの血統はわれらの分れであること、またわれらの夷狄(いてき)に対する敵対関係も、元はといえばそなたらが因を成している(イオーニアの反乱のことを指している)ことを心に留め、合戦の折にはことさら臆した行為に出てもらいたい。」


ヘロドトス著「歴史」巻8、22 から

テミストクレースがこのような文言を残した意図をヘーロドトスは以下のように説明しています。

テミストクレスは右のような文言を刻ませたが、私の思うには、彼は両様の意図をもっていたに相違なく、もしこの文言がペルシア王に知られずに済む場合には、イオニア人を離反させて味方に引き入れる効があろうし、またもし(ペルシア王)クセルクセスに報告されて讒言(ざんげん)の具に用いられるようなことがあれば、イオニア人に対する不信感を王に抱かせ、海戦には彼らを加えぬようにさせることできようと考えたのであろう。


ヘロドトス著「歴史」巻8、23 から

エリュトライからの兵士たちはテミストクレースの残した文言をどのような気持ちで読んだことでしょうか? 「そなたらの血統はわれらの分れであること」というのは、エリュトライなどイオーニアの諸都市の住民はアテーナイからの植民であること指しています。エリュトライの兵士たちはアテーナイ王コドロスの息子クレオポスによって建設されたという伝説を思い起こしたことでしょうか? その彼らは今、ペルシア海軍の一部となって母市であるアテーナイに侵攻しようとしていたのでした。



アテーナイの沖にサラミースという名の島があります。このサラミース島とアテーナイの海岸とで挟まれた狭い海域が決戦の場所になりました。ここで行われた海戦をサラミースの海戦といいます。さて、テミストクレースが岩に刻んだ文言は、この海戦で効果を示さなかったようです。ペルシア側のイオーニア水軍は戦意旺盛でしたし、ペルシア王クセルクセースもイオーニア水軍を海戦から遠ざけることはしませんでした。

イオニア部隊のうち、テミストクレスの要請に応じて故意に戦意を欠いたものは少数にとどまり、大部分はそのような行動には出なかった。私はここにギリシア船を捕獲した(イオニア水軍の)三段橈船の船長の名多数を列挙することができる・・・


ヘロドトス著「歴史」巻8、85 から

ただし、エリュトライからの水軍がどのように戦ったのかについて、ヘーロドトスは何も記していません。


ペルシア側は奮戦しましたが、サラミースの海戦は操船技術で優るギリシア側が勝利しました。ペルシア王クセルクセースは敗戦を知ると、急いで本国に逃げていきました。翌年の春には、ギリシア諸都市の連合水軍が小アジア側まで進出し、ミュカレーという地でペルシア軍を破りました。これに続くギリシア側の軍事行動によって、エリュトライを含むイオーニアの地はペルシアの支配を脱することが出来ました。


ペルシアの支配を脱したところで、エリュトライについての話を終えたいと思います。このあと、アテーナイ、スパルタ、マケドニア、ペルガモンなど、いろいろな国がエリュトライを支配しましたが、比較的弱小なこの町は存続し続けました。そしてローマがこの一帯を支配したときには、アジア属州に属する自由都市(キウィタス・リベラ)として栄えたということです。その頃のローマ人にとって、この町は特産のワインや、山羊、材木、石臼、そして予言する巫女シビュラの伝説によって有名な町でした。

(上:エリュトライの劇場の遺跡)