神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

コリントス(18):リュコプローン(1)


前回のつづきです。

 年下の息子(=リュコプローン)を追い出した後、ペリアンドロスは兄息子(=キュプセロス)から、(母方の)祖父(=プロクレース)が彼らに何を話したのか聞き出そうとした。息子は祖父が親切にもてなしてくれたことは話したが、プロクレスが別れぎわに二人にいた言葉(=「お前たちの母親を殺したのは誰か、お前たちは知っているのかね。」)は、もともとその意味が彼には判らなかったので、思い出せなかった。しかしペリアンドロスは、祖父が彼らに何か入れ知恵をしなかったはずがないといって、追及してやまなかった。そこで息子もやっと祖父の言葉を思い出して、これを父に告げたのであった。こうして事情を知ったペリアンドロスは、手ぬるい処置ではすますまいと腹をきめ、家を追われた後息子が身を寄せている者の許へ使いをやり、息子を家にかくまっておくことを禁止した。その家から追われた息子は別の家を頼ってゆくと、またそこも追われるという有様で、それというのもペリアンドロスが息子をかくまった者を脅かし、遠ざけるように命じたからにほかならなかった。こうして下の息子は幾度も追われながら、知人の家を次から次へと移り動いていった。頼られた知人たちも、何分にもペリアンドロスの子息であるというので、危惧を懐きながらも一応は彼を家に迎え入れたのであった。


とうとうペリアンドロスは布告を発して、息子を家に泊めたり、彼と言葉を交した者は、所定の額の罰金をアポロンに奉納すべきことを規定した。この布告が出てからは、息子に話しかけたり屋敷に迎えようとする者は一人もないようになった。もっとも息子の方も禁令を犯すことを潔しとせず、柱廊をねぐらにして徘徊しつつ、あくまで我を通していた。四日目になって、入浴もできず食事もとれぬために憔悴している息子の姿を見たペリアンドロスはさすがに憐れみの心を起し、怒りを和らげて息子に近づいていうには、
「一体お前はどちらが好いと思うのだ。今のようなままでいるのがよいのか、それともこの父の意に随い、わしが現在握っておる王位と富とを継ぐ方がよいのか。お前はわしの息子として当然この富み栄えるコリントスの王たるべき身でありながら、お前としてはおよそそのような態度をとってはならぬ人間に対して反抗し腹を立てて、自ら放浪者の生活を選んだのだ。と申すのも、例の件で何か不幸な出来事が起ったのが事実であったとしても――このことでお前はわしを疑っているようだが――、それはあくまでわしの身に起ったことであり、またそれはわしが仕出かしたことであるから、一番それに関わりのあるのはこのわしなのだ。だからお前は、人から憐れまれるよりは羨まれる方がどれほど良いことであるか、また親や自分より力のある者に向って腹を立てていることが、どれほど恐ろしいことであるかを悟り、家へ帰ってこい。」


 ペリアンドロスは右のようにいって、息子の心をなだめようとしたのであるが、リュコプロンは父に対して何も答えず、ただ自分と口をきいたからには、父上も神様に罰金を払わねばなりませんね、とだけいった。ペリアンドロスは息子の不幸が、手のほどこしようもなく打開しがたいことを悟り、息子を自分の目の届かぬところに置くために、船を仕立てて彼をケルキュラへ送った。当時この島もペリアンドロスの支配下にあったのである。


ヘロドトス著 歴史 巻3、51、52 から

父と息子のどちらも頑固な性格だったようです。さて、ペリアンドロスの怒りは舅のプロクレースにも向かいました。

 息子を送り出してからペリアンドロスは、このような事態になったことについては舅のプロクレスに一番罪があるというので彼に兵を向け、エピダウロスを占領し、プロクレス自身をも生捕りにした。


ヘロドトス著 歴史 巻3、52 から


リュコプローンはケルキューラ島で生活し、父ペリアンドロスとの関係は修復されないまま年月が流れていきました。

年月は流れてペリアンドロスも老い、自分にもはや政務を執る力のないことを悟ると、ケルキュラに使いをやり、リュコプロンを呼び寄せて僭主の地位につけようとした。兄息子の方は常人よりも魯鈍の性であることは彼の目にも明らかで、とうてい自分の後継者となる能力のないことを看取っていたからである。


ヘロドトス著 歴史 巻3、53 から

暴君とも言われるペリアンドロスですが、このあたり同情してしまいます。こういう頑固で不器用な父親は多くいそうです。