神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

メガラ(7):アテーナイに併合される

その後のメガラについての情報は断片的です。

また彼ら(=メガラ出身の著作家たち)の説では、テセウスがメガラの支配者ディオクレスを欺いて、メガラ人がもっていたエレウシスを奪い取り、そしてスケイロンを殺したのは、テセウスがはじめてアテネに向って歩いて行った時ではなく、もっと後になってからだという。


プルータルコス「テーセウス伝」10 井上一訳 より

上の記事では、メガラの支配者としてディオクレースの名前が登場します。しかしディオクレースがどういう素性の人物で、アルカトオスとはどのような関係にあったのか調べても分かりませんでした。この記事ではエレウシース(アテーナイとメガラの間にある小都市。大地の女神デーメーテールとコレーの聖地として古代には有名でした。)は当初メガラ領であったように書いてあります。このことも私には初耳です。そして、テーセウスがメガラの支配者(メガラ王と考えてよいでしょう)を何らかの形で欺いてエレウシースをアテーナイに併合してしまった、というのです。そしてこの時、スケイローンがテーセウスに殺されたのだといいます。テーセウスはディオクレースをどのように欺いたのでしょうか? 情報がないので分かりません。


さらにプルータルコスは、その後メガラ領全体がテーセウスによってアテーナイに併合されたと記しています。

テセウスは、メガラ地方を確実にアッティカ(アテーナイを中心とする地方)に併合した後、イストモス(地峡。コリントス領でした。)にあの有名な石柱を立て、それに碑文を刻みつけて、地域の境界を二つの三脚詩で確定した。すなわち東に向った碑文は
「ここはペロポネソスにあらずイオニアなり」
と宣言し、西に向ったものは
「ここはペロポネソスなりイオニアにあらず」
と宣言していた。


プルータルコス「テーセウス伝」25 井上一訳 より


これ以降しばらく、メガラはアテーナイ領だったようです。伝説では、メガラはさまざまな伝説的人物の墓のある場所となっています。たとえば、女武者の種族であるアマゾーン族がヒュッポリュテーに率いられてアテーナイに攻めて来た時、テーセウス率いるアテーナイ勢はそれを迎い撃って敗走させました。この時ヒュッポリュテーはメガラで死んだといいます。似たような話ですが、アルゴスの王アドラストスは、テーバイ攻略戦の際、自分の子アイギアレウスがテーバイ王ラーオダマースに討たれて死んだことを知って、アルゴスへ戻る途中メガラで悲しみのあまり世を去ったといいます。次の話はトロイア戦争後のことになりますが、アガメムノーンの娘イーピゲネイアが、黒海沿岸のタウロイ人の国から戻ったのちメガラで死んだ、とメガラ人たちは主張しています。


トロイア戦争の時もメガラはアテーナイに従属していたようで、ホメーロスの「イーリアス」には、メガラ出身の将兵は登場しません。この時のアテーナイ王はメネステウスでした。一方、メガラ王アルカトオスの娘ペリボイアの息子アイアースはサラミース島の兵士たちを率いてトロイア戦争に参加しています。

(上:アイアース)


パウサニアースが記している次の記事は、メガラの最後の王に関する記事ですが、解釈が難しいです。

メガラの最後の王であるアガメムノーンの子ヒュペリオーンがその貪欲と暴力のためにサンディオンによって殺されたとき、彼らはもはや一人の王に支配されるのではなく、アルコーン(=執政官)を選出し、順番にお互いに従うことを決心しました。それから、メガラ人の間で誰にも負けない評判を持っていたアイシュムノスは、デルポイの神のところにやって来て、彼らがどのようにしたら繁栄することができるかを尋ねました。それに対して返ってきた神託は、彼らが多数の人々と相談したならば彼らはうまくいくだろうと答えました。この言葉により、彼らは(中略)評議会室を建てました。


パウサニアース「ギリシア案内記」1.43.3 より

まず、この記事はいつの時代のことを言っているのかが気になります。テーセウスによってメガラがアテーナイに併合される前のことでしょうか? というのはアテーナイに併合されたあとは、メガラの王位は廃止されたはずだからです。しかし、アテーナイに併合されたあとにアルコーンが存在するのも変です。