神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

メガラ(15):テオグニス(1)

テオグニスは教訓詩というジャンルの詩人で、おそらくアテーナイのソローンの活躍した時代より1世代あとにメガラで活躍した人物です。ただし、彼の生涯についてはほとんど分かっていないそうです。生れた町もギリシア本土のメガラなのか、シケリア島のメガラ・ヒューブライアなのかも、はっきりしません。私は本土のメガラの人という前提で話を進めることにします。彼は貴族の出身で、平民と貴族を峻別する貴族主義者でした。



(右:テオグニスの詩を朗誦する饗宴出席者)

都市は、なおも同じ姿を留めているが、そこに住む人びとは変質してしまった。
キュルノスよ、正義と法をまるで知らず、使い古された山羊の皮であばら骨を覆い、
野生のシカのように都市の外に起居する連中が今や貴族であり、反対に、
かつて貴族であった面々は、今や貧しくて惨めな境遇に身を晒している。見るに堪えない光景だ! 
目下の貴族連中は互いに嘲り合い、欺きあって、そもそも何が気高くて何が下劣なのかを
告げてくれる「確たる基準」をまるで知らない。かれらには「伝統」というものが無いからだ。
このような市民たちを、キュルノスよ、いかなる場合にも真の友に選んではならない。
かれらのいずれにも親しみを込めた言葉は口にすべきだが、
かといって、まじめな意図を込めて交わってはならない。
お前は、これらの惨めな連中の「人となり」を学び取って、
当人たちが何事においても信頼に足らないのを目にするだろうからだ。
まことに度し難いこれらの連中が深く愛するのは、裏切り、詐欺、陰謀を措いてほかにない。


(テオグニス 53~68行)
「パイデイア(そのXII)――貴族社会:葛藤と変容―― G・ハイエット著 村島義彦訳」より

度し難い貴族主義ですが、歴史上このようなタイプの人物は多々現われたことでしょう。そしてそこには一定の真実があり、それは没落しつつある階級の悲哀だと思います。上の詩で呼びかけられている「キュルノス」というのはテオグニスの愛した貴族の少年で、彼はキュルノスに教訓を述べる、という形で詩を作りました。正直なところ私には少年愛というのは理解外のもので、どうしても拒否反応があります。しかし古代ギリシアには当たり前のこととして少年愛が登場するので(たとえばプラトーン)、そのたびに面食らってしまいます。



(左:宴席で笛を吹く少年)

お前は賢明であれ、そして不名誉または不義の行為のためには名誉も美徳も財産も求めないことだ。
お前に知ってほしいのは、悪しき人々と付き合うのではなく、常に善き人々に忠義を尽くし、
彼らのテーブルで食べたり飲んだり、一緒に座ったり、彼らを喜ばせたりすることだ。彼らの力は大きいのだから。
善き人々からは善を学ぶが、悪しき人々と交われば、すでに持っている知恵を失うことになる。したがって、善き人々と交わりなさい、
いつの日かお前は、私が友に正しく助言していると言うことだろう。


テオグニス 32?~38行 英訳からの拙訳

テオグニスが「善き人々」と呼ぶのは貴族のことであり、「悪しき人々」というのは平民(新興貴族も含む)なのでした。かといって、彼は新興階級に対して戦いを挑もうとするのではなく、最初に引用した詩に「かれらのいずれにも親しみを込めた言葉は口にすべきだが、かといって、まじめな意図を込めて交わってはならない。」とあるように、表面的には彼らに友愛の様を見せながら、内心では彼らを軽視する、というだけなのでした。相手に合わせて態度を変えることを彼は「ずる賢さ」と呼び、そしてそれをタコが場所に合わせて自分の色を変える性質にたとえています。そこには幾分の自嘲が含まれているようです。

心よ、友人たち皆にならって変わりやすい性質へ向かうのだ。
誰もが持っている性質に混ざりながら。
くっついている岩と外観が同じようになる、
ずる賢い蛸の性質を持て。
時によってこのように振舞ったり、他の色になったりしろ。
たしかにずる賢さは節操よりも優っているのだ。


(テオグニス 213~218行)
「テオグニスとニーチェ」 小野寺郷著 より

あるいは次の詩も、そのような消極的な態度を示しているのかもしれません。

私が一人で黒い水の泉から飲んでいた間は、
水は私には甘くて美しく思えた。
だが今は既に濁ってしまった、水は土と混ざっている。
他の泉か河から飲むとしよう。


(テオグニス 959~962行)
「テオグニスとニーチェ」 小野寺郷著 より

なお、文中「黒い水」というのは日本語で考えると汚い水のことのように思えますが、古代ギリシアではこれはきれいな水のことを意味しているようです。