神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

メガラ(12):ビューザース


(右:ローマ皇帝コンスタンティヌス 在位AD 312~337年)


ビューザンティオンは、その創建から約1000年後にローマ皇帝コンスタンティヌスによって大々的に作り変えられてコンスタンティヌスの町(コンスタンティノープル)」と改名されました。やがてこの都市はローマ帝国の首都となり、「第二のローマ」とも「諸都市の女王」とも呼ばれました。ローマ帝国東ローマ帝国ともビザンティン帝国ともいう)は1453年にオスマン帝国によって滅ぼされますが、この町はその後もオスマン帝国の首都であり続けました。1922年のオスマン帝国の滅亡によって首都ではなくなりましたが、イスタンブールの名前でトルコ第一の都市として現在まで存続しています。このような歴史的に重要な都市なので、もう少し伝説を追っていきたいと思います。


前回も登場したビューザンティオンの建設者とされるビューザースですが、その後、どんどん神話化が進んでいったようです。高津春繁氏の「ギリシアローマ神話辞典」

によれば、ビューザースは牝牛になって世界をさまよったイーオーの伝説に結びつけられています。まずは、イーオーの話を手短にご紹介し、次にその話からビューザースの話をつないでいきます。


イーオーはギリシアアルゴスに住む娘でしたが、大変美しい娘だったので、例によって例のごとく大神ゼウスの浮気の相手になってしまいます。それをさっそく嗅ぎつけたのがゼウスのお妃ヘーラーです。ゼウスは、やばいっと思ってイーオーを牝牛の姿に変えてしまいました。(姿を変えるにしても何で「牛」に変えるんでしょう?) ヘーラーは騙されたふりをして「まあ、なんて美しい牛なんでしょう! これ、頂きたいわ。」とゼウスに牝牛をねだりました。ゼウスは断り切れず、牝牛の姿をしたイーオーをヘーラーに譲ったのでした。ヘーラーはイーオーに番人をつけて常時監視しました。この番人というのが体中に眼がいっぱい付いているアルゴスという怪物でした。この怪物は眼ごとに眠る時刻が異なるため、どれかの眼は必ず開いていて監視しているのでした。ゼウスは息子のヘルメースにこのアルゴスを殺させます。これでイーオーは解放されたのですが、今度はヘーラーは虻を送ってイーオーを苦しめました。この虻はイーオーの耳にまとわり続け、時折、針で刺してイーオーを苦しめるのでした。牝牛の姿のイーオーは苦しみのあまりギリシア本土からトラーキアをさまよい歩き、ビューザンティオン、今のイスタンブールのある辺りの海峡を渡りました。イーオーが海を渡ったところが「牝牛の渡し」という意味のボスボロスと名付けられました。今のボスポラス海峡です。その後、今のトルコからシリア、レバノンイスラエルを通過し、ついにエジプトに着いたところで、ゼウスによって人間の形に戻され、ゼウスの子を産んだのでした。(ゼウスがもっと早くイーオー助ければよかったのですが。エジプトまではヘーラーの眼が届かない、と思ってやっとここで助けたのでしょうか?) 生まれた子供エパポスはギリシア神話に登場する多くの英雄たちの祖先になるのですが、その話は省略します。なお、イーオーはエジプトの女王になったと伝説は伝えます。

(上:牝牛に姿を変えられたイーオー)


さて、ビューザースに関する話は、上の話にこういうふうに追加されました。イーオーはのちにビューザンティオンになる場所でゼウスの娘ケロエッサを産んだ。そしてケロエッサと海の神ポセイドーンの間にビューザースが生まれた、というふうにです。ケロエッサというのは「角ある女」という意味なので、角があったのでしょうか? イーオーが牝牛の姿だったのでケロエッサも牛の姿で生まれたということでしょうか? さて、ビューザンティオンの横にある湾が角の形のように見えるので金角湾(クリュソン・ケラス)という名がついているのですが、ケロエッサがこの傍で生まれたために「角ある女」という名が付いたと一般的には言われています。しかし、ケロエッサを産んだのはいいですが、イーオーはそのままエジプトへ行ってしまったのですから、ケロエッサを誰が育てたのでしょうか? 疑問が残ります。


それはともかくとして、ケロエッサが海の神ポセイドーンの愛を受けてビューザースとストロムボスを産んだのでした。ビューザースは成人するとビューザンティオンを建設し、アポローン神と父親のポセイドーンの助けを得て、城壁を築きました。ビューザースはトラーキアの王ヴァルヴィゾスの娘ペイダレイアと結婚しました。別のトラーキアの王ハイモスがビューザンティオンを攻めて来た時、ビューザースは一騎打ちでハイモスを倒しました。一騎打ちのためにビューザースがビューザンティオンを留守にしている間に今度は遊牧民スキュティアの王オドリュセースが軍を率いてビューザンティオンを攻めてきました。ビューザースの后ペイダレイアは、町の女たちとともに敵陣中に蛇を投じて、スキュティアの軍を撃退しました。後世、ビューザンティオンの目立つ場所には、建設者ビューザースとその后ペイダレイアを記念する像が建てられてあったといいます。


以上が神話化されたビューザースの話です。この伝説ではビューザンティオンがメガラの植民市であった事実が消えてしまっています。そしてビューザースもメガラ人ではなくなっており、BC 7世紀の人物ではなく、神話時代の太古の人とされています。この伝説に従えば、ビューザンティオンの創建の年代もBC 667年ではなく、もっとさかのぼることになります。しかし、BC 667年創建という説も後世まで有力でした。ローマ皇帝コンスタンティヌスは、AD 334年がBC 667年から数えて1000年になるという理由から、この年にビューザンティオンの1000年祭を挙行したということです。