神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

メガラ(10):王制の廃止

さて、歴史家ヘーロドトスが

最初の侵入は、ドーリス族がメガラ市を創建した時のことで、この出征を当時アテナイの王位にあったコドロスの名にちなんで呼ぶのは、多分正しいのであろう。


ヘロドトス著 歴史 巻5、76 から

と書いているので、コリントス王アレーテースがアテーナイを攻めた時にメガラ市は創建されたようです。しかし、英語版Wikipediaの「メガラ」の項によれば、当初メガラはコリントスに属していたようです。

歴史時代に入ると、メガラは最初コリントスの属領であり、メガラからの入植者がシシリー島のシラクサの北にある小さなポリス、メガラ・ヒューブライアを設立しました。 その後、メガラはコリントスとの独立戦争を戦い、その後BC 685 年にカルケードーンを、そしてビューザンティン (BC 667 年頃) を設立しました。


英語版Wikipediaの「メガラ」の項より


メガラの王制が廃止されるのは、メガラがコリントスから独立する前でしょうか、後でしょうか? はっきりした記事を見ていませんが、私は前と推定します。というのは、隣のアテーナイの王制が廃止されたのが、(あとで述べるように)コドロス王の2代後ぐらいと伝えられているのですが、メガラもおそらくそれと前後する時期に王制を廃止したのではないか、と推測したためです。その頃はまだ歴史時代とは言えない時代なので、王制廃止はメガラがコリントスより独立する前と考えました。


以上の理由から、王制廃止についてのパウサニアースの以下の記事をここに位置付けます。

メガラの最後の王であるアガメムノーンの子ヒュペリオーンがその貪欲と暴力のためにサンディオンによって殺されたとき、彼らはもはや一人の王に支配されるのではなく、アルコーン(=執政官)を選出し、順番にお互いに従うことを決心しました。それから、メガラ人の間で誰にも負けない評判を持っていたアイシュムノスは、デルポイの神のところにやって来て、彼らがどのようにしたら繁栄することができるかを尋ねました。それに対して返ってきた神託は、彼らが多数の人々と相談したならば彼らはうまくいくだろうと答えました。この言葉により、彼らは(中略)評議会室を建てました。


パウサニアース「ギリシア案内記」1.43.3 より


アガメムノーンの子ヒュペリオーンがどのくらい貪欲であり、具体的にどのような横暴な行為があったのか、もう少し情報があれば、と思います。そしてサンディオンという人物はなぜヒュペリオーンを殺したのかも、知りたいところです。上の記事に出てくるアイシュムノスという人物は新しい貴族制の時代を切り開いた人なのでしょう。隣のアテーナイの場合、王制廃止の様子は以下のように記されています。

アテナイ人はコドロスの子孫が贅沢に耽り柔弱であると思われたので。もはや彼らの間から王を選ばなかった。


アリストテレース「アテーナイ人の国制」の散逸した部分のヘラクレイトスによる抜粋 村川 堅太郎 訳 より

最後にできたのはアルコンの役で、多くの人々はメドン(コドロス王の息子)の時にできたと言うがアカストス(メドンの後継者)の時にできたと言う者もあり、その証拠として九人のアルコンがアカストスの時と同様に誓約を行なおうと誓うことを挙げ、この人の時コドロスの子孫が王位を退き、その代わりにアルコンにいろいろの特権が与えられたという。両説のいずれにしてもたいして時代の違いはない。


アリストテレース「アテーナイ人の国制」3・1 村川 堅太郎 訳より。

これらの記述から読み取れる情報は、あまり多くなさそうです。いずれにせよ、コドロスの次の次の代(アカストスの治世)にアテーナイでは王制が廃止されたのでした。その隣りに位置するメガラでも同じ頃に王制が廃止されたのではないか、と私は推測しました。


ここから先しばらくは伝説もない時代が続きます。おそらく200年ぐらい続くと思います。その次にメガラについて言うことが出来る出来事は、シケリア島(現在のシシリー島)への植民の話です。メガラ人はシシリー島にメガラ・ヒューブライアという植民市を建てましたが、これはBC 728年頃のこととされています。