神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

メガラ(13):テアゲネース

植民市としてビューザンティオンを建設したBC 667年頃のメガラの政体は、おそらく貴族制であったと推測します。しかし、その後十数年のうちにテアゲネースという人物が政権を握り、僭主になったようです。同じ頃、隣のコリントスでもキュプセロスという人物が貴族制を打倒し、僭主になっています。


テアゲネースについてはあまり分かっていません。哲学者アリストテレースは「政治学」の中でテアゲネースのことを少し書いています。

その当時は国[都市]は大きなものではなく、民衆はその仕事に忙しくて田野の中に住んでいたため、民衆の先導者たちは、戦争に熟達するに至ると、僭主の地位を狙うのが常であった。そして彼らは皆このことを民衆から信頼されることによって為したものだった。しかしその信頼は富裕者に対するその人の敵意にもとづくものであった。例えば(中略)メガラでテアゲネスが僭主になったのは富裕な人々が河の畔りの他人の土地で家畜を飼っているところを抑えて、彼らの家畜を屠殺することによってであった。


アリストテレース政治学」山本光雄訳 第5巻5章8~9節より

これによれば、テアゲネースは裕福な人々から家畜を没収して屠殺したようです。おそらく彼はそれを貧民に振る舞って、貧民を味方に付けたのではないでしょうか? こうなると富裕階級はテアゲネースを敵視するようになります。英語版Wikipediaの「テアゲネース」の項によれば、アリストテレースの著作のひとつ「弁論術」には、テアゲネースはメガラ人に護衛者を付けてくれるよう説得した、ということが書かれているそうです。そしてこの護衛者たちを使ってメガラの支配権を握ったということです。政権を握ったのち、テアゲネースがどのようにメガラを統治したかについては情報がありません。ただ、メガラの美観を整えることにも気を配ったようで、パウサニアースはテアゲネースはメガラ市内に噴水を作ったと述べています。

市内にはテアゲネースによって市民のために建てられた噴水があります。(中略)このテアゲネースは僭主になると、噴水を建てました。噴水は、その大きさ、美しさ、柱の数で注目に値します。そこには、シトニデスのニンフたちの水と呼ばれる水が流れ込みます。


パウサニアース「ギリシア案内記」1.40.1 より


テアゲネースは自分の娘をアテーナイの有力者キュローンと結婚させました。このキュローンが自分もアテーナイの僭主になろうとして、テアゲネースからメガラ兵を借りてクーデタを起こしました。これはBC 630年頃のことです。

昔アテーナイにキュローンという市民がいた。生れも高く勢力も大で、オリュムピア競技の優勝者でもあった。当時メガラの独裁者でテアゲネースという人物がいたが、キュローンはこのテアゲネースの娘を妻としていた。あるときキュローンがデルポイの神託を仰ぐと、神は、ゼウスを祀る最大の祭の日にアテーナイ人のアクロポリスを占拠すべし、という神意をつたえた。そこでかれはテアゲネースから兵を借り、自分に与する一派を説きつけて、ペロポネーソスのオリュムピア祭の日がやってくると、これを潮時と見てアクロポリスを占拠して独裁制をおこなおうとした。かれはこの日こそゼウスを祀る最大の祭と思い、オリュムピアの栄冠をえた自分にとって、とくにふさわしい機会だと考えたのである。


トゥーキュディデース著「戦史」 巻1.126 から

テアゲネースは自分の兵をキュローンに貸したのですから、この企てを支援していたのでしょう。ところがこの企ては失敗し、キュローンとその一味はアテーナイ人たちに包囲されてしまいました。

 時間が過ぎるにしたがって(中略)籠城の憂目にあっているキュローンの一味は、食糧と飲水を断たれて悲惨な状態に陥った。キュローンとかれの弟はとにかく脱出したが、仲間の者たちの窮状はつのり、ついには餓死者が幾人か生ずるに至って、のこりの者たちはアクロポリスの祭壇にすがって助命の嘆願をおこなった。


同上

キュローンのこの失敗がテアゲネースにどのような影響を与えたのか気になりますが、分かっていないそうです。この事件のあとアテーナイ人はメガラに対して敵意を持つようになったと想像します。メガラとアテーナイはこの頃からサラミース島の領有をめぐって長年の争いに突入します。