神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

メガラ(8):ヘーラクレイダイのペロポネーソス帰還

前回は、メガラ最後の王についての記事の時代を問題にしました。そしてこの話を、メガラがアテーナイに併合される前の話ではない、としました。とすると、メガラがアテーナイから独立することがなければ、この記事に合致する状況が生まれません。実は、メガラがアテーナイから切り離されることを示す記事があります。

その後、(アテーナイ王)コドロスの治世において、ペロポネーソス人はアテーナイへの遠征を行いました。目覚ましいことを何も達成出来なかったので、彼らは国に帰る途中でアテーナイ人からメガラを奪い、そこに行きたいと思ったコリントス人や他の同盟国の住処としてそれを与えました。


パウサニアース「ギリシア案内記」1.39.4 より

これはヘーラクレイダイ(ヘーラクレースの子孫)がドーリス人(ギリシア人の一派)を率いてアテーナイを攻撃したという伝説です。これについては歴史家ヘーロドトスも以下のように述べています。

最初の侵入は、ドーリス族がメガラ市を創建した時のことで、この出征を当時アテナイの王位にあったコドロスの名にちなんで呼ぶのは、多分正しいのであろう。


ヘロドトス著 歴史 巻5、76 から

この時にメガラがアテーナイから引き離されたとするならば、前回の最後に紹介した、メガラ最後の王に関する記事は、上の出来事より後の時代のものである、と考えられます。


そこで、ヘーラクレイダイがアテーナイを攻撃して、メガラをひき離して独立した町にした出来事に至るまでの経過を、以下にご紹介します。話は古代ギリシアの神話世界における最大の英雄であったヘーラクレースが死去するところから始まります。


ヘーラクレースが死去すると、今までヘーラクレースを迫害していたミュケーナイ王エウリュステイスは、ヘーラクレースの子供たちを迫害します、彼らはペロポネーソス半島を出て逃げ回っていましたが、最終的にアテーナイ王テーセウスの助力によってエウリュステウスの軍を破り、エウリュステウスを処刑します。こうして帰国の障害が取り除かれたのでヘーラクレースの子供たちはペロポネーソス半島の諸都市を攻略してこれらを奪い取りました。しかし彼らがペロポネーソスに戻って一年後、疫病が蔓延することになりました。これを神の怒りととらえた彼らはデルポイの神託に神意をたずねました。神託が言うのは、彼らがペロポネーソスに戻る定めの時以前に彼らが戻ったことが原因であるといいます。そこで、ヘーラクレースの子供たちは一旦アテーナイ近くのマラトーンに移住して、定めの時を待つことにしました。神託は、「三度目の収穫を待ってのちに帰るであろう」と告げていました。そこで、彼らの指導者となっていたヘーラクレースの子ヒュロスは、3年後に軍を率いてペロポネーソスに向いました。この時アルカディア地方のテゲアの王エケモスとその軍がコリントス地峡で彼らを待ち構えていました。ヒュロスとエケモスは一騎打ちで事を決することにし、一騎打ちの結果エケモスがヒュロスを討ち取りました。ヘーラクレースの子供たちは軍を引き返しました。ヒュロスの墓はメガラにあります。


(上:コリントス地峡)

その近くにヘーラクレースの息子ヒュロスの墓があります。彼は、アエロポスの子であるアルカディア人エケモスと一騎打ちをしました。ヒュロスを殺したエケモスが誰であるかを私は物語の別の部分で話しますが、ヒュロスもメガラに埋葬されています。


パウサニアース「ギリシア案内記」1.41.2 より

ヘーラクレイダイが去ったので、ミュケーナイの王位は神託によってペロプスの子アトレウスに引き継がれました。アトレウスはエウリュステウスの母ニーキッペーの弟であることからエウリュステウスの叔父に当ります。また当時、アトレウスはミュケーナイに亡命していました。このアトレウスの子がアガメムノーンで、アガメムノーンはギリシア諸侯を率いてトロイアへ遠征したのでした。


一方、ヘーラクレイダイのほうはと言いますと、ヒュロスの孫のアリストマコスが再び神託を求めました。神託は「汝が狭い所によって攻めるならば、神々は勝利を与えるであろう」というものでした。そこでアリストマコスは「狭い所」というのはコリントス地峡のことを指すのだろうと解釈して、そこからペロポネーソスに攻め込みました。しかし、アリストマコスは、ペロポネーソスの王ティーサメノスに迎え撃たれて戦死しました。このティーサメノスは、アガメムノーン王の孫にあたります。すなわちアガメムノーンの息子がオレステースで、オレステースの息子がティーサメノスです。