神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

メガラ(9):メガラの2度目の創建

アリストマコスには3人の息子たちがいました。この3人が成人した時、ペロポネーソスへの帰還について三たび神託を求めました。すると神託はまたしても「三度目の収穫を待ってのちに帰るであろう」と答え、また「汝が狭い所によって攻めるならば、神々は勝利を与えるであろう」とも告げたのでした。そこで3人兄弟の一番上の兄であるテーメノスは、父や曾祖父はその神託に従ったのに帰還に失敗したではないか、と神を責めました。すると神は「彼らは神託の真意を取り違えていたのだ。三度目の収穫とは3年のことではなく、人間の収穫の意味で、3世代のちという意味なのだ。つまりヒュロスから3世代のちのおまえたちのことなのだ。そして、狭い所というのは地面の狭い所ではなく、海の狭い所のことなのだ。」と告げたのでした。テーメノスたちは自分たちがペロポネーソスを獲得出来ると知って、ナウパクトス(ここでは海が狭い)で船を建造して、ペロポネーソス侵入の準備をしました。

(上:ナウパクトスから対岸のペロポネーソス半島を望む)




ところがナウパクトスで軍を集めている間に、いろいろ変事が起きました。そこにカルノスという名前の神がかりになった予言者が現われました。ヘーラクレースの孫にあたるヒッポテースは、この予言者が自分たちに不幸をもたらす魔術師であり、ペロポネーソス人たちによって送られた者であると判断して、槍を投げて殺してしまいました。このことがあったのち、せっかく建造した船は破壊され、また饑饉も襲ってきたために招集した兵士たちもある者は倒れ、ある者は故郷へ逃げ帰ってしまい、軍隊は消滅してしまいました。テーメノスがこの禍いついて神託を求めたところ、神託は「これは予言者を殺害したことが原因である。よって殺害者を十年間追放せよ。また、案内者として三つ目の男を使うがよい。」と答えました。このためテーメノスはヒッポテースを追放しました。また、三つ目の男を探したところ、一つ目の馬に跨っている、オクシュロスという人物に出会ったので、これこそ神託が案内者として指定した人物だと悟り、彼にペロポネーソスの案内を頼んだのでした。こうしてテーメノスの3兄弟はペロポネーソス半島に侵入し、最終的にはテーメノスはアルゴスの王となり、弟のアリストデーモスがスパルタの王となり、別の弟のクレスポンテースがメッセーネーの王となりました。


さて、メガラに関係することになる話は彼らについての話ではなく、追放されたヒッポテースについての話です。追放中のヒッポテースに息子が生まれました。追放中だったので「放浪者」の意味を持つアレーテースと名付けられました。アレーテースは成人すると、自分もテーメノス3兄弟のようにどこかの町の王になりたいと考えるようになりました。ドードーナの神託に王となる方法を尋ねたところ、「多くの花の頭飾りの日に土くれを与えられたときに」という神託を得ました。そこでコリントスの町の死者の祭の日に、乞食の身なりをしてコリントスに出かけました。そこでアレーテースは祭に集った人々にパンを乞うたのでした。アレーテースのみすぼらしい身なりを見て馬鹿にしたひとりの男がアレーテースに向けて土くれを投げつけました。この後、コリントスクレオーンの娘が、自分を妻にすればコリントスの城門を開けるとアレーテースに約束した、ということですが、詳しい経緯はよく分かりません。とにかくこの娘の裏切りにより、コリントスはアレーテースの軍に占領されたのでした。アレーテースは次にアテーナイに軍を進めました。前回紹介したパウサニアースの記事

(アテーナイ王)コドロスの治世において、ペロポネーソス人はアテーナイへの遠征を行いました。


パウサニアース「ギリシア案内記」1.39.4 より

は、このアレーテースの攻撃のことを指しています。この時、デルポイの神託は「アテーナイ王の命を助ければ、アテーナイを手に入れることが出来る」と告げました。しかし、この神託はデルポイ人によってアテーナイ王コドロスにも知らされました。コドロスはアテーナイを守るために自分が殺されるように図りました。今度はコドロスが貧しい身なりをしてアレーテースの陣に近づき、そこの兵士と争ってわざと殺されたのでした。アレーテースはそのことを知って、軍を引きました。この時に、アレーテースの軍勢はアテーナイからメガラを引き離して、自分たちや同盟国の人々の植民市にしたのでした。いわば、メガラの2度目の創建でした。今度はドーリス人の町としてメガラは創建されました。もう一度、パウサニアースの記事に戻ります。

目覚ましいことを何も達成出来なかったので、彼ら(アレーテースの軍隊)は国に帰る途中でアテーナイ人からメガラを奪い、そこに行きたいと思ったコリントス人や他の同盟国の住処としてそれを与えました。


同上

この時にメガラ王が擁立されたのだと私は推測します。パウサニアース(1.43.3)によれば、メガラ最後の王はヒュペリオーンで、彼はアガメムノーンの子ということです。アガメムノーンと言えば、神話の世界におけるミュケーナイ王アガメムノーンが思い出されます。ギリシア諸侯を率いてトロイアを攻略した王です。この王が、ヒュペリオーンの父親であるとするのは、年代上無理があります。おそらく、ミュケーナイ王アガメムノーンの子孫であると主張する家系があり、その中の一人がアガメムノーンと名乗っていたのでしょう。そして、メガラ王ヒュペリオーンはそのアガメムノーンの息子だったのでしょう。