神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

イアーリュソス(11)ロドス(2):ロドス島の巨像

さて、デーメートリオスは軍をロドス島から撤退させましたが、それはエジプト王プトレマイオスの軍隊がロドス島に到着したからでもありました。デーメートリオスの軍勢の撤退が非常に慌ただしいものだったために、攻城櫓を始めいろいろな戦争機械がロドス市周辺に置き去りにされました。これらの戦争機械の巨大でメカニックな様子は、包囲されていたロドス市民らですら、思わず見とれてしまうものだったそうで、デーメートリオスはこういう機械を発案することに特異な才能を持っていたのでした。

デーメートリオスの手仕事は王にふさわしいもので、そのやり方には偉大なところがあり、その作品の妙味や精巧と共に雄大な計画と意向を併せていたので、工夫や資力ばかりでなくそれを作った手まで王にふさわしいということが明らかにわかった。現にその大きさが味方を驚かせたばかりでなく、その美しさは敵までも感服させた。(中略)ロドスの人々は長い間デーメートリオスに攻囲されていたが、戦争の結末がついた時、その機械をいくつかもらい受けて、デーメートリオスの勢力の記念と同時に自分たちの武勇の記念にしたいと頼んだ。



プルータルコス「デーメートリオス伝」20節 河野与一訳 より。(ただし、旧漢字、旧かなづかいは、現代のものに改めました。)


デーメートリオスの撤退後、ロドス市民はその勝利を祝い、これらの戦争機械を売り払いました。そしてそれで得たお金でロドス島の主神であるヘーリオスの巨像をロドス市の港の入口に作ることにしました。巨像制作の総監督にはリンドスの彫刻家カレースが選ばれました。巨像の製作はBC 292年に始まり、12年後に完成しました。高さ32メートルの、当時としては馬鹿でかい神像です。ニューヨークの自由の女神像の古代版と考えればよいでしょう。こういう巨大な彫像をギリシア語でコロッソスと言います。これは世界の七不思議の一つに数えられました。


ところがこの七必見(七不思議)の1つであるロドス島の巨像はBC 226年に起きた地震のために膝から折れて倒壊してしまいます。ということは80年にも満たない存在であったのですが、それにもかかわらず世界の七不思議としてずっと後世までその名が伝わるとは、かなりラッキーな存在のように思えます。さて、ロドス市民は、神ヘーリオスに似せて巨大な彫像を作ったことが、神の怒りに触れたのだろうと考え、この巨像を再建しようとはしませんでした。


私のイアーリュソスについての話は、このロドス島の巨像の話で終わりにします。最後に、ゲーテの「ファウスト」にこのロドス島の巨像のことを踏まえたセリフがあるのをご紹介します。ゲーテは神話世界のロドス島にいた「テルキーネス」たちが、神々の像を始めて作ったという話と、このロドス島の巨像(太陽神ヘーリオスをかたどった神像)建設、そしてその後それが地震で倒れたという話をわざとごちゃまぜにして話を作っています。場面は、ファウストが絶世の美女ヘレネーを求めて「古代ワルプルギスの夜」を探索する場面で、舞台は「岩に囲まれたエーゲ海の入江」です。また、下の引用に出て来る「テルヒネたち」というのは「テルキーネス」のドイツ語読みです。ここの場面では次から次へと古代ギリシアの神話上の種族や人物が登場しては消えていきます。

テルヒネたち
(中略)
幸福なロドスの申上げることをお聴き下さい。
(中略)
陽の神は昼の歩みを始め、中空に昇り、
燃える光の眼差しでわれらを見詰められます。
山々、町々、岸辺も波も
神の御意に召して、親しげで晴れやかです。
霧も立ちこめませんが、たとい霧が湧いてきても、
一筋の陽光、一陣の微風で、島はまた元の姿に立ち返ります。
気高い神は御自分の姿が、あるいは若者として、
あるいは巨人として、あるいは偉大に、あるいは柔和に刻み上げられているのを見そなわす。
神々の御稜威を厳かな人間の姿に創り刻んだのは、
われわれだったのです。われわれが最初だったのです。


ゲーテ作「ファウスト(二)」 高橋義孝訳 より。

このようにテルキーネスたちは、ヘーリオスの巨像を作ったことを述べます。史実ではもちろん半人半魚のテルキーネスたちではなく人間が作ったのですが。


このテルキーネスたちの言葉は、海の神プロテウスには気に入らなかったようです。

プロテウス
ああして歌わせておけ、威張らせておけ。
太陽の聖なる生命の光の前では、
生命のない拵え物などは洒落にもならぬ。
(中略)
巨大な神像がいくつも立ってはいた――
が、一度の地震で滅茶苦茶にされてしまったではないか。

(中略)
 地上の営為は、それがどういうものであれ、
所詮は無駄な骨折りなのだ。

どうも、テルキーネスとプロテウスは人工と自然の対立を表しているようです。

イアーリュソス(10)ロドス(1):絵画イアーリュソス

ロドス市が建設されてから100年ほど経ったBC 305年、ロドス市はマケドニア王デーメートリオス1世の軍隊によって包囲攻撃を受けていました。デーメートリオスはロドス市に対して、エジプト王プトレマイオス1世との同盟を破棄するように要求し、ロドス市がその要求を拒絶したためにこの攻撃を受けることになりました。

(コインに描かれたデーメートリオス)


これは、有名なアレクサンドロス大王が広大な領域を征服したのち32歳の若さで急逝したために起きた混乱の1つでした。アレクサンドロスは死期の床で自分の後継者について「王たるにふさわしい者に・・・」とのみ遺言して死んでしまったことから、アレクサンドロスの部下たちの間で後継者争いが始まったのでした。後継者を名乗る者の一人、プトレマイオスはエジプトに自分の勢力圏を確立していました。ロドス島はエジプトに近かったこともあって、このプトレマイオス1世の影響下にありました。そのロドス島をプトレマイオスから奪って自分のものにしようとしたのが、やはり後継者を名乗るアンティゴノスです。デーメートリオスはこのアンティゴノスの息子でした。


デーメートリオスは移動攻城櫓を使ってロドス市を攻撃しました。この移動攻城櫓をヘレポリスといいます。

(デーメートリオスが)プトレマイオスの同盟者であるロドスの人々と戦争をした時は、最も大きなヘレポリスをその城壁のところへ持ち出したが、その台座は正方形で底面の各辺は48ペーキュス(22mほど)、高さは66ペーキュス(30mほど)あって、底から頂きにいくほど狭くなっていた。ところでその内部は数多くの階と部屋に分かたれ、敵のほうに向っている面には各階に窓を開けてそこからあらゆる種類の飛び道具が発射され、あらゆる種類の戦闘を心得た兵士で満たされていた。


プルータルコス「デーメートリオス伝」21節 河野与一訳 より。(ただし、旧漢字、旧かなづかいは、現代のものに改めました。)



このロドス包囲戦のある時、デーメートリオスは当時の有名な画家であるプロートゲネースの作品「イアーリュソス」を手に入れたといいます。この「イアーリュソス」は、イアーリュソス市を創建した伝説上の人物イアーリュソスを描いたものです。

ちょうどその頃カウノスの人プロートゲネースが描いていたイアーリュソスの物語の絵がもう少しで完成するまでになっていたのを、デーメートリオスはこの町の郊外で手に入れた。ロドスの人々は使いを送って、その作品を大事にして破らないでくれと頼むと、デーメートリオスは自分の父の肖像を焼くとしても、これほど骨折った芸術品は焼かない、と返事した。実際、プロートゲネースはこの絵を完成するのに7年かけたと言われている。


プルータルコス「デーメートリオス伝」22節 河野与一訳 より。(ただし、旧漢字、旧かなづかいは、現代のものに改めました。)

プロートゲネースは大陸側のカーリアのカウノスの生れでしたが、当時はロドス市に住んでいました。上の引用からすると、ロドス市の城壁の内側ではなく、その郊外に住んでいたのでしょうか? 別の説では(どうも後世のローマの文筆家プリニウスが「博物誌」に書いているらしいですが、私は確認していません。)、プロートゲネースがこの時描いていたのは「イアーリュソス」ではなくて「休むサテュロス」という絵で、この説によればプロートゲネースがこの絵を製作している場所が戦場になってしまったが、彼は絵の製作を止めなかったそうです。そこでデーメートリオスはわざわざ彼のところへ訪ねていき、兵の一部を割いて、プロートゲネースを守らせた、ということです。


絵画「イアーリュソス」については、当時プロートゲネースと並び称されるアペレースもその絵の出来に、驚嘆したそうです。

アペレースもこの作品を見た時ひどく驚嘆してしばらく声が出ず、だいぶたってから「大した苦心で、すばらしい作だ。」と言ったが、自分の描いた絵の名声を天にまで届かせているあの味がないと言っていた。


(同上)


ロドス市は最後まで陥落しませんでした。やがて休戦条約が結ばれ、デーメートリオスの軍勢は引き上げていきました。

ロドスの人々は頑強に戦争を続けたので、撤退の口実が見当たらずにいたデーメートリオスは、アテーナイから来た使節の調停により、プトレマイオスを敵とする場合を除いてロドスの人々がアンティゴノスおよびデーメートリオスの同盟者になるという条件で講和を結んだ。


(同上)


絵画「イアーリュソス」はその後もロドス市に保管され、ロドス市がローマの支配下になってもキケロの時代までロドス市にあったそうです。その後ローマ市に持っていかれ、「平和の神殿」というところに展示されたが、そこで火事に会い、焼失してしまったということです。

イアーリュソス(9):ロドス市の建設

BC 431年、ギリシア世界はアテーナイ側とスパルタ側に分かれ、ペロポネーソス戦争が始まります。イアーリュソスを含むロドスの町々はドーリス系でしたがもともとデーロス同盟に参加していることからアテーナイ側に付きました。BC 415年にアテーナイはシケリア(シシリー島)遠征を行ないますが、その際にロドスの軍勢が参加しています。とはいえ、ここまではロドス島は戦場からは遠く離れていたために、戦争の被害はあまりありませんでした。しかしBC 413年にアテーナイとその同盟国のシケリア遠征軍が壊滅すると事情が変りました。今度は小アジアエーゲ海側に戦場が移り、ロドス島にも戦雲が迫ってきました。


BC 412年、ロドス3都市の富裕者階級はスパルタ側への寝返りを画策しました。これは北のキオス島で起きたのと同じような事情だったのだと推測します(「キオスの反乱(1)(2)を参照下さい。)。つまり、国内の富裕層と一般庶民との間の対立がそれぞれを一方はスパルタ支持に、もう片方をアテーナイ支持に向わしめたのでした。

他方、ペロポネーソス勢は、ロドス島で最も有力な市民から協力の申し入れを受けて、ロドスへ船隊を進める方針を立てた。(中略)こうしてかれらはこの冬が終るのを待たず、ただちにクニドスから発進し、先ず最初に船隊九十四艘をロドス島のカメイロスに接岸させたが、この間の両者の秘密交渉について何も知らされていなかった一般市民は驚き逃げようとした。この町には城壁の備えがなかったことも、市民に恐怖をあたえたとりわけ大きい原因となっていた。しかしその後、ラケダイモーン人らはこれら市民ならびに、リンドスとイエーリュソス両市の市民らの民議会を招集し、説得のすえついにアテーナイから離叛することを承知させた。こうしてロドス島はペロポネーソス側に組することとなったのである。


トゥーキュディデース著「戦史」巻8・44 から

このあとイアーリュソスを含むロドス島がどうなったのか、残念ながらトゥーキュディデースは書いていません。全般的な話としては、幸いにもその後戦場はもっと北のヘレースポントス海域(現代のダーダネルス海峡)に移ったので、ロドス島はその近海での戦いはそれほどなかったようです。


まだ、ペロポネーソス戦争の決着がついていないBC 408年に、イアーリュソス、リンドス、カメイロスの3市は共同で、島の東端に新しい町を建設しました。この新しい町はこの都市は碁盤の目状に道路を走らせたいわゆるヒッポダモス方式で設計され、ロドス市と名付けられました(ヒッポダモスについては「ミーレートス(27.最終回):復興」を参照下さい。ミーレートスのヒッポダモス自身がこの都市の設計に関わったという伝承もありますが、私は年齢的に無理であろうと考えています)。


この都市はイアーリュソスからは12kmぐらいしか離れていませんでした。このロドス市がその後、貿易で、また学問の中心地のひとつとして大いに栄え、その影響でイアーリュソスは逆に衰退していきます。このブログでは続けてロドス市についてもご紹介していきたいと思います。現代のロドス市を訪れるとまず目につくのは古代の遺跡ではなく、中世の十字軍の精神を受け継ぐロドス騎士団の重厚な城壁です。しかし、このブログは中世はスルーしてひたすら古代ギリシアに注目していくことにします。


イアーリュソス(8):ディアゴラス

ディアゴラスはイアーリュソス出身のボクサーで、前回登場したティーモクレオーンの同時代人でした。彼はオリュンピア競技(いわゆる古代オリンピック)でボクシングで2回優勝しました。そのほかに古代ギリシアの有名な競技会で何回も優勝しています。具体的にはコリントスのイストミア大祭の競技会で4回、ネメア大祭で2回、デルポイのピューティア大祭での優勝回数は不明ですが少なくとも1回優勝しました。これらの競技会は古代ギリシア四大競技会と呼ばれています。イストミアとネメアの大祭は2年に1回、オリュンピア、ピューティアの大祭は4年に1回挙行されていました。


ディアゴラスが有名になったのは、彼自身の優勝回数も理由のひとつですが、そのほかに、彼の息子たちもオリュンピアで優勝したことも与っていました。彼の長男のダマゲトスはBC 452年にパンクラティオンというレスリングとボクシングを合せたような競技で優勝しています。次のBC 448年のオリュンピア競技ではこの長男がまたもやパンクラティオンで優勝するとともに次男のアクーシラオスがボクシングで優勝したのでした。彼らは父親のディアゴラスを肩に載せて競技場を巡り、観客の歓声を浴びました。観客はディアゴラスを最も幸福な人間であり、今の瞬間が彼にとって最も幸福な時であるとみなしたそうです。ある伝説によれば観客は以下のようにディアゴラスに向って叫んだというのですが、さすがギリシア悲劇を生みだした文明と言うべきか、私たち現代の日本人の多くにとっては異様な感性の言葉です。


「ここで死ぬんだ、ディアゴラス。ほかではオリュンポスに登ることはないだろう。」


伝説では、ここで息子たちに担がれたままディアゴラスは死んだということですが、実際はそんなことはありません。古代ギリシアでは人はその幸福の絶頂で死ぬのが望ましい、とされていたそうです。オリュンポスに登るというのは、神に成ってオリュンポスの神々の一員になる、という意味でしょう。


それはともかく、ディアゴラスの名誉はさらに続き、三男のドリエウスはその後オリュンピアに3回出場し、3回ともパンクラティオンで優勝したのでした。さらに、ディアゴラスの孫たちもオリュンピアで優勝したとのことです。


ディアゴラスはその家系においても興味深い存在で、イアーリュソスの王家エラティダイの子孫でした。もっともこの頃にはイアーリュソスの王制は廃止されていて、おそらく民主制(そうでなければ貴族制)になっていましたが、それでも彼の家系はイアーリュソスの名門でした。伝説によれば、BC7世紀のイアーリュソス王ダマゲトスは、ギリシアで一番立派な男の娘を娶るようにという神託を受け、本土のメッセニアの反乱指導者アリストメネースの3番目の娘と結婚したということです。アリストメネースは当時スパルタの支配下にあったメッセニアで起った反乱で、メッセニア人から指導者に選ばれた者でした。彼が率いるメッセニア人の反乱軍はギリシア最強といわれたスパルタ軍と互角以上に戦ったのですが、同盟していたアルカディアの王がスパルタに買収されて裏切ったために形勢が不利になり、最後には反乱は鎮圧されてしまいました。ダマゲトスがアリストメネスの娘を妻にと乞うた時は、この反乱が瓦解するころであり、アリストメネスはこれを機に娘とともにイアーリュソスに亡命し、その後そこで亡くなりました。ディアゴラスはこのダマゲトスと、アリストメネスの娘の血を引いているということです。


現代のイアーリュソスの西4kmのところにある国際空港は、このディアゴラスの名にちなんでロドス・ディアゴラス国際空港といいます。
(以上、日本のWikipediaの「ディアゴラス」の項「アリストメネス」の項アメリカのWikipediaの「ロドスのディアゴラス」の項を参考にしました。)

イアーリュソス(7):ティーモクレオーン

BC 480年の「サラミースの海戦」まで時代を下ります。ペルシア王クセルクセースは陸海の大軍を率いてギリシア本土に攻め込み、アテーナイを占領し火を放って町を破壊しました。一方、ギリシア連合海軍はアテーナイ沖のサラミース島に集結し、その後両者が対戦しました。その結果、アテーナイの知将テミストクレースの貢献もあってギリシア軍はペルシア海軍を打ち負かしたのでした。このサラミースの海戦の後に、イアーリュソス出身の人物が歴史に、というか歴史の隅っこに登場します。それはティークレオーンという詩人で、宴会で歌う歌を作っていました。才能はあまりなかったようです。彼はテミストクレースを非難する歌を書いたことで、歴史に名を留めました。


ティークレオーンの墓銘碑は、高名な詩人のシモーニデースが作ったのだそうですが、こういうものです。

大いに飲み、大いに喰らい、大いに中傷したるのち、
我、ロドスのティークレオーン、ここに休めり。


アメリカのWikipediaの「ティーモクレオーン」の項より

ところでティークレオーンは生前、このシモーニデースにも食ってかかっていたようです。シモーニデースはティークレオーンよりはるかに優れた詩人で、テルモピュライでペルシア軍のために倒れたスパルタ兵を歌ったシモーニデースの以下の詩は有名です。

旅人よ、ラケダイモーン人に伝えよ。
我ら掟のままに、ここに横たわる、と。


さて、ティークレオーンについて大きな情報を残してくれたのは、AD 1世紀のギリシア著作家プルータルコスです。彼はテミストクレースの伝記の中で、テミストクレースは名誉心もあり聡明でもあったが、お金に汚いという欠点があったという例を述べるのにティークレオーンを持ち出してきています。

 ロドスの抒情詩人ティークレオーンは歌を作ってテミストクレースを辛辣に非難し、他の追放者たちは金を貰ったものだから帰国ができるように取計らったのに、自分は前々からの友人でありながら見捨てたのも金のためだと言った。その歌はこうである。「もしも君がパウサニアースを、もしくはクサンティッポスを、もしくはレウテュキダースを讃えるならば、私はアリステイデースを讃える。これは神聖なアテーナイから来た一人の実直な人間である。テミストクレースはレートーに嫌われている。嘘つきで不正で裏切り者だ。ティークレオーンが友人なのに、はした金に迷わされてこの人を故郷のイアリューソスに戻してやらず、銀を三タラントン持って海へ乗り出したが、いっそ死ねばいい。・・・・」


プルータルコス「テミストクレース伝」21節 河野与一訳 より。(ただし、旧漢字、旧かなづかいは、現代のものに改めました。)

このプルータルコスの記述だけからは事情がよく分かりませんが、どうもティークレオーンはテミストクレースとは友人関係だったので、テミストクレースにお金を払って、故郷のイアーリュソスに帰してくれるように頼んだようです。しかしテミストクレースはそのお金を受け取ったものの、他人からの頼み(それはお金を払っての頼みでしたが)を優先してティークレオーンをイアーリュソスに帰さなかった、ということらしいです。それでティークレオーンはテミストクレースを非難する歌を作ったというわけです。


なぜティークレオーンはロドスに帰国することが難しかったのでしょうか? プルータルコスは別の箇所で

ティークレオーンは、ペルシアびいきの廉で追放になったが、その時テミストクレースが賛成の投票をしたのだといわれている。

と書いています。そうするとティークレオーンは「ペルシアびいき」、つまりペルシアの支配への協力者と見なされてロドス島を追放されたということのようです。しかし、当時、ギリシア勢はサラミースの海戦でかろうじてペルシア勢を撃退したばかりで、ロドス島は依然ペルシアの支配下にあったはずです。とすると、ペルシア支配下のイアーリュソスから誰かが「ペルシアびいき」のために追放される、というのはおかしなことです。しかも「その時テミストクレースが賛成の投票をしたのだといわれている」とあるのも、ロドスでの話ではなさそうに思えます。これを、ティークレオーンはアテーナイに出て来ていたが、ペルシアと対決する決意をしたアテーナイ政府がティークレオーンをアテーナイから追放した、と解釈すれば、ペルシアびいきを理由に追放されたという記述も、テミストクレースが賛成の投票をしたという記述も、理解出来ます。しかし、今度はティークレオーンがなぜ自力ではロドスのイアーリュソスに帰国出来ないのか、その理由が分からなくなります。


その後、テミストクレースは自分の功績を誇るあまり、アテーナイ市民に嫌われるようになり、とうとう陶片追放に会ってしまいます。陶片追放というのはアテーナイの制度で、有力になり過ぎたと思われる人物を投票で決め、10年間アテーナイから追放するというものです。陶片追放に会った人物は別に犯罪者として扱われず、10年たてば帰国出来るのですが、政争の激しい当時のアテーナイでは、テミストクレースの追放中に政敵たちがテミストクレースを「ペルシアびいき」の廉で弾劾し始めました。サラミースでペルシア海軍を破るのに一番功績のあった人物をよりによって「ペルシアびいき」の理由で弾劾するのですから、かなりの無理があります。そのような無理が通るのが当時のアテーナイ政界でした。

(テミストクレースの名が書かれた陶片。このような陶片に追放したい人物の名前を書いて投票しました。)


さて、テミストクレースが「ペルシアびいき」で告発されると、ティークレオーンは自分だけが「ペルシアびいき」ではない、という歌を作りました。

ところでその後、テミストクレースもペルシアびいきだと告発された時に、それに対してこういう詩を作った。「それでは何もティークレオーンだけがペルシア人と結んだのではなくて、ほかにも悪者がたくさんいるのだ。何も俺だけが尾なし狐ではない。ほかにも狐がたくさんいる。」


プルータルコス「テミストクレース伝」21節 河野与一訳 より。(ただし、旧漢字、旧かなづかいは、現代のものに改めました。)


いずれにしてもティークレオーンはテミストクレースのおかげで歴史に残ったような人物で、それ以外に目立った業績はなかったようです。

イアーリュソス(6):ドーリス6都市同盟

それではイアーリュソスに住みついたドーリス人はどこから来たのでしょうか? アメリカのWikipediaの「ロドス島」の項を見ても、それについての情報はありませんでした。私は、ペロポネーソス半島のアルゴスが、ロドス島のドーリス人の故郷ではないかと推定します。

その根拠の一つは、伝説上でロドス島を支配していたというトレーポレモスの故郷がアルゴスである、ということです。もう一つは、ダナオスとその娘たちがエジプトから遁れて来てロドス島に立ち寄った、という伝説がありますが、その伝説によればこのダナオスはその後アルゴスの王になる、ということです。これらの伝説がアルゴスとの関係を示唆していることから、私はアルゴスがイアーリュソスを始めとするロドス島の3都市の母市ではないかと推定しています。(その後、トゥーキュディデースの「戦史」巻7・57に「ロドス兵は本来アルゴスからの植民の末でありながら」という文章を見つけました。)


やがて、イアーリュソスは近隣のドーリス系都市と同盟を結びました。これがヘクサポリス(6都市)という同盟で、その加盟都市は、まずロドス島の3都市、イアーリュソス、リンドス、カメイロスであり、そのほかコース島のコースと、あとは大陸側の2都市、ハリカルナッソスクニドスです。

(上:ドーリスの6都市同盟の都市)


コース島エピダウロスからの植民による都市であり、ハリカルナッソストロイゼーンアルゴスからの、クニドスはスパルタからの植民による都市で、全てドーリス系の都市でした。これらの都市はトリオピオンというクニドスの近くのアポローン神殿を崇拝し、この神殿のために競技を奉納し、他の都市をこの聖域に入れないようにしました。のちにハリカルナッソスがこの同盟から除名された話は「ハリカルナッソス(4):リュディアとペルシアへの服属」でご紹介しました。




(左:アブ・シンベル大神殿



BC6世紀の初めには、イアーリュソスの人間がエジプトの傭兵として、アブ・シンベルまで行ったことが、当時の碑文から分かっています。アブ・シンベルというのは有名なアブ・シンベル神殿のあるところで、エジプトでも南の方になります。こんな遠くにまで当時のギリシア人が来ていたのにはびっくりします。碑文には「イアーリュソス人テーレポス」「イアーリュソス人アナクサデル」の名前が刻まれているそうです。(周藤芳幸著「物語 古代ギリシア人の歴史」によりました。)

イアーリュソス(5):ドーリス人の到来

古典時代、イアーリュソスはドーリス系の町でした。ドーリス人というのは英雄ヘーラクレースの子孫と称する人々に率いられた集団です。トロイア戦争のところで登場するトレーポレモスはヘーラクレースの息子なので、トレーポレモスのロドス島への移住は、ドーリス人のロドス島への到来の記憶が反映されているのかもしれないと、当初私は思いました。


しかし、伝説によればヘーラクレースの子孫がドーリス人を率いてペロポネーソス半島を征服したのは、トロイア戦争のあとであり、ロドス島など海を越えた移住はさらにその後である、とされています。ですのでトロイア戦争にトレーポレモスがロドス島に移住したという話は、ドーリス人の到来の話としては時期が早過ぎることになります。トゥーキュディデースは以下のように述べています。

トロイア戦争後にいたっても、まだギリシアでは国を離れるもの、国を建てる者がつづいたために、平和のうちに国力を充実させることができなかった。その訳は、トロイアからのギリシア勢の帰還がおくれたことによって、広範囲な社会的変動が生じ、ほとんど全てのポリスでは内乱が起り、またその内乱によって国を追われた者たちがあらたに国を建てる、という事態がくりかえされたためである。また、現在のボイオーティア人の祖先たちは、もとはアルネーに住居していたが、トロイア陥落後60年目に、テッサリア人に圧迫されて故地をあとに、今のボイオーティア、古くはカドメイアといわれた地方に住みついた。また80年後には、ドーリス人がヘーラクレースの後裔らとともに、ペロポネーソス半島を占領した。こうして長年ののち、ようやくギリシアは永続性のある平和をとりもどした。そしてもはや住民の駆逐がおこなわれなくなってから、植民活動を開始した。


トゥーキュディデース「戦史 巻1 12」より


そうすると、トレーポレモスの伝説は、のちにロドス島に住みついたドーリス人の首長たちが(彼らは自分たちを英雄ヘーラクレースの子孫と信じていたのですが、その彼らが)作った伝説と考えるのがよさそうです。


ロドス島へのドーリス人の到来について伝説がないか探していたところ、高津春繁著「ギリシアローマ神話辞典」に以下の伝説を見つけました。

イーピクロス
ロドス島に侵入して、フェニキア人を追い払ったドーリス人の将。フェニキア人はわずかにイアリューソス市の城を保つのみとなり、その将パラントスは、烏が黒く、城中の水槽に魚がいないかぎりは城を保ち得るであろうとの神託を得ていたが、敵に召使が買収され、あるいはパラントスの娘がイーピクロスに恋して、彼の命により石膏で翼を白く塗った烏を飛ばせ、水槽に魚を放ったので、パラントスは降伏した。


高津春繁著「ギリシアローマ神話辞典」より


なんとこの伝説では、ドーリス人がやって来る前のロドス島にはフェニキア人が住んでいたことになっています。しかしそれは荒唐無稽な話でもなさそうです。というのは、トゥーキュディデースギリシア人以前にはフェニキア人とカリア人がエーゲ海の島々に住んでいたと書いているからです。

当時島嶼にいた住民は殆どカーリア人ないしはポイニキア人(=フェニキア人)であり、かれらもまたさかんに海賊行為を働いていた。これを示す証拠がある。今次大戦*1中にデーロス島がアテーナイ人の手で清められ、島で死んだ人間の墓地がことごとく取除けられたとき判明したところでは、その半数以上がカーリア人の墓であった。これは遺体と共に埋められていた武器や、今日なおカーリア人がおこなっている埋葬形式から判った。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1、8 から


ロドス島にドーリス人が到来する前はフェニキア人が住んでいた。このことを受け入れると、私はまた別の疑問を抱いてしまいます。というのは、考古学ではトロイア戦争があったと推定される時代のロドス島はミュケーナイ文明というギリシア先史文明の影響下にあったとされているからです。そうすると、ロドス島の住民は、ギリシア人→フェニキア人→ギリシア人、と変わったのでしょうか? 私にはよく分かりません。

*1:ペロポネーソス戦争のこと