神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

リンドス(10):カレース

カレースはBC 280年頃活躍したリンドス出身の彫刻家でした。彼の一番大きな仕事はロドス市の港に太陽神ヘーリオスの巨像を建設したことです。その建設は、マケドニア王デーメートリオスによるロドス市包囲に対してのロドス市の勝利を記念として企画されました。


BC 305年、ロドス市マケドニア王デーメートリオス1世の軍隊によって包囲攻撃を受けていました。デーメートリオスはロドス市に対して、エジプト王プトレマイオス1世との同盟を破棄するように要求し、ロドス市がその要求を拒絶したためにこの攻撃を受けることになりました。

(コインに描かれたデーメートリオス)


これは、有名なアレクサンドロス大王が広大な領域を征服したのち32歳の若さで急逝したために起きた混乱の1つでした。アレクサンドロスは死期の床で自分の後継者について「王たるにふさわしい者に・・・」とのみ遺言して死んでしまったことから、アレクサンドロスの部下たちの間で後継者争いが始まったのでした。後継者を名乗る者の一人、プトレマイオスはエジプトに自分の勢力圏を確立していました。ロドス島はエジプトに近かったこともあって、このプトレマイオス1世の影響下にありました。そのロドス島をプトレマイオスから奪って自分のものにしようとしたのが、やはり後継者を名乗るアンティゴノスです。デーメートリオスはこのアンティゴノスの息子でした。


ロドス市の包囲戦は1年間続きました。やがてエジプト王プトレマイオスの軍隊がロドス島に到着したため休戦条約が結ばれ、デーメートリオスの軍勢は引き上げていきました。デーメートリオスの軍勢の撤退が非常に慌ただしいものだったために、移動攻城櫓を始めいろいろな戦争機械がロドス市周辺に置き去りにされました。これらの戦争機械の巨大でメカニックな様子は、包囲されていたロドス市民らですら、思わず見とれてしまうものだったそうです。デーメートリオスの撤退後、ロドス市民はその勝利を祝い、これらの戦争機械を売り払いました。そしてそれで得たお金でロドス島の主神である太陽神ヘーリオスの巨像をロドス市の港の入口に作ることにしました。この巨像制作の総監督に選ばれたのがリンドスの彫刻家カレースでした。



(左:移動攻城櫓の模型。高さは30mほどあったという。)


高さ32メートルの、当時としては馬鹿でかい巨像の製作はBC 292年に始まり、12年後に完成しました。しかしカレースはその完成を見る前に死去し、建設は同じリンドス出身のラケースという者に引き継がれ完成した、と伝えられています。この伝説にはさらに尾ひれがつきました。そのひとつによれば、カレースが巨像をほぼ完成したときに、ある人がその巨像についてささいな欠陥を指摘したそうです。するとカレースは、(おそらく彼は完璧主義者だったのでしょう)その指摘をすごく気に病んでしまい、とうとう自殺してしまったということです。おそらくこれは作り話でしょう。別の話はもっと作り話くさい話です。ロドス市政府がカレースに最初高さ16mの像の制作を依頼してその費用を尋ねました。彼がその費用を答えると、市政府の役人は、では高さ32mではいくらかかるか、とまた尋ねてきました。カレースは高さ16mの時の2倍の費用を答えてしまいました。そこで高さ32mで市政府とカレースの間に契約がなされました。ところが(数学が得意な方にはすぐ分かることですが)高さが2倍になれば体積は8倍になり、したがって材料も8倍必要になります。この話ではカレースは材料費が8倍になったために破産してしまい、それが原因で自殺したということになっています。リンドスのカレースの生涯については確かなことは分からないようです。


ロドス市の太陽神ヘーリオスの巨像は、ニューヨークの自由の女神像の古代版と考えればよいでしょう。こういう巨大な彫像をギリシア語でコロッソスと言います。これは世界の七不思議の一つに数えられました。

  • ところで「世界の七不思議」という言葉の原語には「不思議」という意味はなく、日本語にする時に誤訳したという話です。もともとは「世界の七必見」という意味だったそうです。


ところがこの七必見(七不思議)の1つであるロドス島の巨像はBC 226年に起きた地震のために膝から折れて倒壊してしまいます。ということは60年にも満たない存在だったことになります。エジプト王プトレマイオス3世は巨像再建のための資金提供を申し出ましたが、ロドス市民は、神ヘーリオスに似せて巨大な彫像を作ったことが、神の怒りに触れたのだろうと考え、この巨像を再建しようとはしませんでした。


リンドスについての私の話は、これで終わりです。読んで下さり、ありがとうございます。