神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ハリカルナッソス(13):ヘカトムノスの一族

ハリカルナッソスはBC 454年までにはアテーナイを中心とするデーロス同盟に参加し、BC 431年からのペロポネーソス戦争において一度もアテーナイに対して反乱することなく、BC 404年のアテーナイの敗戦までデーロス同盟に留まっていました。トゥーキュディデースの戦史にはハリカルナッソスの名前はたぶん1回しか登場しません。それも何か活躍しての話ではなく、アテーナイの将軍アルキビアデースが「ハリカルナッソスに赴いて市民から強制的に多額の資金を調達し」たというだけの話です。
さてアテーナイの敗戦後のBC 399年、若きスパルタ王アゲシラオス2世は小アジアに渡ってペルシアに戦いを挑みました。そのアゲシラオス小アジアで善戦するのを見たペルシアの宰相ティトラウステスはギリシア本土内で戦争が起きるように陰謀を画策し、再びアテーナイがスパルタに対して戦争を始めることになりました。この作戦は功を奏し、アゲシラオスは故国スパルタに戻らざるを得なくなります。やがて戦況はアテーナイ側が優勢になりました。ペルシアとしてはスパルタ、アテーナイのどちらの勢力にも強大になって欲しくないので、突然ここで戦争に介入して停戦に持ち込みました。これがBC 386年の「大王の和約」という平和条約です。この条約によって小アジアギリシア都市はペルシアの支配下に入ることになりました。これによってハリカルナッソスもペルシアの支配下に入ります。
これより少し前、ハリカルナッソスの東側にあるカーリア人の国ミュラサの統治者ヘカトムノスがペルシア王国支配下のカーリアの太守になるという出来事がありました。ミュラサは元々ペルシアに服属していましたが、それはペルシアの一部リュディア属州の一部としてでした。ところが当時のペルシア王アルタクセルクセースは、このリュディア州からカーリアを分離させて独立の属州とし、その太守にヘカトムノスを任命したのです。これはとても異例のことで、ヘカトムノスはペルシア人以外で太守の地位についた始めて人間になりました。彼はかなりの野心家で、事実上の独立を勝ち取っていました。BC 386年の「大王の和約」によりハリカルナッソスはこのヘカトムノスの支配下に入ったのでした。このあと、ハリカルナッソスはBC 326年までこの一族によって支配されることになります。
BC 377年ヘカトムノスの長男マウソロスが王位を継ぐと、彼はこの国(カーリア国)の首都としてハリカルナッソスを選びました。彼はハリカルナッソスを首都にふさわしくあるように改造していきます。



(左:マウソロスの像)

マウソロスは、ハリカルナッソスを武人の統治者にふさわしい都にしはじめた。敵の攻撃に備えるため、町に面している湾を深くし、その掘り出した土で海峡の防御を固めた。さらに、城壁や見張り台も設置された。また、市場に隣接して大きな港を造り、その奥に隠れた小さな港も造った。この港は敵の不意を着く攻撃に適していた。一方、内陸部では一般市民のために、広場や道路、家の整備が進められ、4つの門と2つの大通りが造られた。そして、ギリシア風の劇場や戦争の神アレスを祀った神殿なども建設された。湾の一画には、マウソロスの巨大な要塞型宮殿が建てられた。この宮殿は、海から、敵の攻撃目標となりうる丘の上までしっかり見渡せた。


日本語版ウィキペディアの「マウソロス霊廟」の項より。

彼は近くのロドス島も領土に含めます。今やハリカルナッソスは小国とはいえ一国の首都として栄えました。

24年の統治ののちBC 353年に、マウソロスは死去します。彼の妻はその名をアルテミシアというのですが、夫の死を非常に悲しみました。奇妙なことにアルテミシアは実はマウソロスの妹でもあったのです。これはカーリアの王家の伝統だとも説明されています。古代エジプトにも同じようなことがあったと記憶しています。

アルテミシアは夫の支配権を引継ぎましたが、夫のために世界で最も美しい墓を造ることを決心しました。こうして建設されたのがマウソレウム(マウソロス霊廟)です。今でも英語のmausoleumという単語は「壮大な霊廟」のことを意味します。その語源となったのがこの霊廟でした。この霊廟は当時のギリシアの最上の建築家と芸術家を招聘して建設され世界の七不思議の一つにも数えられていました。

  • ところで「世界の七不思議」という言葉の原語では「不思議」という意味はなかったということを最近ウィキペディアで知りました。これは日本語にする時に誤訳したらしいです。もともとは「世界の七必見」という意味だったそうです。そうだと分かると意味がしっくりしてきます。

壮麗な霊廟だったであろうマウソレウムがどんなものだったか偲ぼうにも、残念ながら今ではその廃墟しかありません。



その代わり、そのミニチュア模型がイスタンブールにあるそうです。
このアルテミシア、ただ夫を偲ぶだけの女性ではなく、武人としても優れていたようです。マウソロスが死去した直後のこと「アルテミシアが君臨し始めると、女性が全カリアの諸都市を支配することにロドス人が立腹し、艦隊を装備して、この王国を占領すべく、出港した」(ウィトルウィウスによる)という事件がありました。しかし彼女はハリカルナッソスの大きな港の奥にあった秘密の港に自分の船を隠し、ロドス人たちが上陸を始めたのを見計らって横から奇襲をかけて勝利を得たのでした。そしてロドス人たちの船を奪って逆にそれに自分の兵隊を乗せてロドス島を攻略し、反乱を鎮圧したのでした。このアルテミシアも夫の死の2年後に死去します。その時まだ霊廟は完成していませんでしたが、建設に当っていたギリシア人の建築家、芸術家たちは、霊廟の建設を続け、完成させたのでした。

プリニウスによれば、霊廟が完成する前に依頼主が亡くなったのに建築家たちが工事を中断しなかったのは、この霊廟が自分個人の栄光と手腕の記念になると考えたからだという。


日本語版ウィキペディアの「マウソロス霊廟」の項より。