神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

キオス(15):キオスの反乱(2)

BC 412年夏、キオスで離叛を計画する数名が大陸側のコーリュコス岬に出向き、そこに来ていたスパルタの先遣隊5隻の指揮官2名と打合せをしました。そして、自分たちが近くキオスの評議会を開催することを話し、スパルタの先遣隊に、そのタイミングで、公式の前触れなしにキオスに入港することを要請しました。このため5隻のスパルタの軍艦が突如としてキオス港に現われることになったのでした。

(手前がキオスの町、遠方が昔のエリュトライ(現トルコ領)。その間は25km程度。コーリュコス岬は画面の右外側に位置する。)


大多数の一般市民はこれを見て驚愕狼狽に陥ったが、貴族派はかねてよりこれを期して、ちょうどこの時に評議会が開催されているように仕組んであった。その場に臨んだ(スパルタの指揮官の)カルキデウスとアルキビアデースは論をつくして渡来の主旨を説明し、やがて多数の後続船隊が到着すべく目下その途についていると言った(中略)。これを聞いてキオス人、つづいてエリュトライ人が、アテーナイから離叛した。(中略)
キオス離叛の報はたちまちアテーナイに伝えられた。アテーナイ人は、今や自国を脅す危険がきわめて重大かつ深刻な意味をもつことを悟り、そして、最大の同盟国キオスが敵側に廻ったとなれば、残りの同盟諸国も騒然となるにちがいない、と判断した。


トゥーキュディデース著「戦史」巻8・14~15 から

アテーナイは直ちに8隻の軍船をキオスに急行させます。
ところで上の引用に登場したアルキビアデースは非常に興味深い人物です。もともとアテーナイの名門の出でアテーナイの将軍でしたが、ある犯罪の容疑がかけられると逃亡し、今はスパルタの将軍をやっているのでした。この男はこのあとペルシアの味方をし、次に再度アテーナイに復帰し、その後またしてもアテーナイから追放される、という数奇な人生を送ります。アルキビアデースのことを説明すると長くなりますので、ここではこれだけにします。


アテーナイの先遣隊はスパルタとキオスの艦隊によって撃退され、それらはアテーナイの同盟国サモスに逃げ込みます。この頃サモスはアテーナイ海軍の拠点となっていました。勢いに乗るスパルタとキオスの船隊は今度は南下してミーレートスをアテーナイから離叛させます。

カルキデウスとアルキビアデースは、(アテーナイの将軍)ストロムビキデースをサモスに追い込んだのち、ペロポネーソスの船隊の漕手らに武器甲冑を与え重装兵部隊に仕立ててキオスに留め、これらの船の部署にはキオスから船員を徴して配し、他にあらての船二十艘を加えて、ミーレートスをめざして航路を進んだ。これを離叛させようと考えたのである。(中略)かれらの船隊はその航程の終り近くまで誰にも気付かれることなく進み(中略)ミーレートスに到着、これを離叛せしめた。


トゥーキュディデース著「戦史」巻8・17 から

ミーレートスはこのあとスパルタ側で居続けます。キオスはさらに北にあるレスボス島の諸都市を味方に付けようとします。

同夏、これらの事件の後、キオス人の積極的意慾は当初以来一向に衰えを見せず、ペロポネーソスからの来援をまつまでもなく、自分らの数をもってすれば諸ポリスを離叛させるに足りると考え、また目下の危険を頒ちあうべくできうる限り多数の国を味方につけたいと望んで、自国の軍兵と軍船十三艘を率いると、レスボスを目指して遠征軍を進めた。(中略)やがてメーテュムネーに到着した船隊は、先ずこれを離叛させ、ここに軍船四艘を留めた。残りの船隊はさらにミュティレーネーに進んでこれを離叛させた。


トゥーキュディデース著「戦史」巻8・22 から


しかしキオスが優勢だったのはここまででした。ミュティレーネーはたちまちアテーナイ軍に奪還されてしまいます。徐々にアテーナイ艦隊がこの方面に集結しつつあったのでした。この直前にスパルタの艦隊司令官アステュオコスがキオスに入港し、レスボス島をペロポネーソス側に引き留めるために艦隊を率いて上陸します。しかし形勢利あらずとみるとレスボス島をすぐに撤退してしまいました。このスパルタ艦隊司令官の煮え切らない作戦指導は、その後もキオスをイラつかせることになります。


その後アテーナイはレスボス全島の支配を回復し、そこからキオスに攻めてきました。

(アテーナイの)レオーンとディオメドーンは、レスボスの基地からアテーナイ船隊を率いて、キオスの手前の沖合に浮ぶオイヌーッサイ諸島をはじめ、エリュトライ領に砦を有するシドゥーッサとプテレオンなどから作戦を起こし、[レスボスの基地を後にすると]キオス人に対して上陸作戦を挑んだ。かれらは搭乗戦闘員として、兵役名簿からえらんだ重装兵を強制的に乗組ませていた。こうしてカルダミュレーに上陸、続いてボリスコスにも上陸するや、応戦に討ってでたキオス勢と交戦してこれを撃破、その多数を倒して、この地域一帯を破壊し荒廃に帰せしめた。続いてパナイにおいてあらたな戦を挑んで勝ち、三度目の勝利をレウコーニオンにおいてあげた。ここに至って、もはやキオス勢は城外に迎撃しようとはしなくなり、アテーナイ勢は、ペルシア戦争いらい美しく住み整えられ、この時まで何の損傷も蒙ったことのない、キオス郊外の諸地域に対して、徹底的な破壊行為を加えた。


トゥーキュディデース著「戦史」巻8・24 から


上の引用文にあるように、ペルシア戦争終結してからこの時までキオスの町は敵に蹂躙されたことがなかったのでした。それが今、アテーナイによって徹底的に破壊され、籠城することになりました。この時までキオスが戦火にさらされることがなかった原因をトゥーキュディデースは、キオスの政策が優れていたためと書いています。

というのは、私が見聞する限りでは、ただひとりキオス人は繁栄のさなかにあっても、ラケダイモーン人にも比すべき中庸の政策を持して忘れず、かれらのポリスが殷賑をきわめると、それに応じてなお一層堅固なる秩序の維持につとめてきたからである。


同上


そして、今回のキオスのアテーナイに対する反乱についても、それは軽挙妄動ではなかったと論じます。

したがってまた今度の離叛にしても、より安全確実な道を捨てて行動に走ったかのごとき感を与えるかも知れないけれども、じつはかれらは、この危険な賭を共にするべき多数の信頼できる同盟者を先ず決行に先だって確保していたし、さらにまた、シケリアの惨敗以後アテーナイの体制に大きく罅(ひび)が入った事実を、アテーナイ人自身すら否定できないことを見届けるまでは、あえて離叛の挙に出ようとはしなかった。そして予測をくつがえす人生不測の要素のために、かれらの計画に蹉跌を来たしたとはいえ、この場合の誤算はかれらだけが犯したものではなく、このとき多勢の人間がみな、アテーナイの版図崩壊はもはや時間の問題であろうという、誤った判断を下していたのである。


同上

トゥーキュディデースの硬質の文章の内に、キオスに対する彼の同情が秘められているのを私は感じます。