神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

キオス(14):キオスの反乱(1)

BC 478年に発足したデーロス同盟はアテーナイが中心になって組織した同盟で、この同盟においてキオスの位置づけは年賦金を免除される代わりに軍船を同盟に提供するというもので、他の加盟国より優遇された位置づけにありました。デーロス同盟は当初は、ペルシアの侵略に対抗するための同盟でしたが、徐々にアテーナイが他国を支配するための組織に変質していきました。内政干渉を強めるアテーナイに対して、いろいろな国(=都市国家)が反乱を起こしましたが、それらはアテーナイと同盟軍によって鎮圧され、その結果アテーナイの支配はますます強固になっていきました。


デーロス同盟でキオスと同様に年譜金を免除されていた都市には、ほかにサモスミュティレーネーがありましたが、サモスはBC 440年に反乱を起こし、アテーナイを中心とする同盟軍によって鎮圧されました。この時キオスは、ミュティレーネーとともにアテーナイに協力しています。


その後、BC 431年にはペロポネーソス戦争が勃発します。これはアテーナイを中心とするデーロス同盟諸国と、スパルタを中心とするペロポネーソス同盟諸国との間の戦争でした。この戦争は27年間も続くのですが、戦争の4年目に早くもミュティレーネーがアテーナイに対して反乱します。これも鎮圧されてしまうのですが、キオスはこの時点でもアテーナイに忠実でした。


BC 415年に始まったアテーナイの大規模なシシリー島遠征にキオスも同盟国として参加しています。この遠征はBC 413年にアテーナイの壊滅的な敗北で終わります。アテーナイ市民は最初、この敗北のニュースを信じようとはしませんでした。アテーナイにとっては空前の規模の遠征軍を派遣したのであり、まさかそれほどの大軍が壊滅する、などということは、とても信じられなかったのです。

アテーナイ本国にやがてこの報が伝えられても、長い間、市民はこれを信じようとはしなかった。実際にこの作戦に参加していて難を免れた正真正銘の兵士らが、ありのままの真相を報告するのを聞いても、それほどに徹底的な、一兵ものこらぬ全滅に陥ることなどありえようか、と疑ったのである。しかしこれが真実であることが判明すると、市民らは、自分らが決議の投票をなした主体であることを忘れたかのように、この遠征挙行を声をそろえて積極的に支持した政治家たちに対して非難をあらわにし、また、神託師や予言者など、遠征軍出航に先立って、神慮天意を理由にシケリア(=シシリー島)遠征成功の夢を市民らに植えつけた誰かれに対しても、憤りをなげつけた。


トゥーキュディデース著「戦史」巻8・1 から


ここに至ってキオスの貴族派の人々はアテーナイに対する反乱を決意します。この年、キオスの貴族派の人々はスパルタに反乱に対する支援を打診しました。

キオスとエリュトライの両市でも、市民のあいだで離叛の手筈が整えられた。しかしかれらは(出征中のスパルタ王)アーギスのもとには使せず、ラケダイモーン(=スパルタ)本国政府に援助を求めた。(中略)
ラケダイモーン人は、実行に移るに先き立って、プリューニスという周住民出身の男を偵察者としてキオスに派遣した。はたしてキオス人が言うほどの船数がその港に揃っているかどうか、またその他全般的に見てキオスのポリスが世に伝えられるその名声に遜色ない力をもっているかどうかを、探らせたのである。やがてかれが帰着して、噂に聞いたことはいずれも皆真実であると報告するに及んで、ラケダイモーン人は直ちにキオス、エリュトライの両国と同盟を結び、キオス人が自国には軍船六十艘以上の備えがあると言明したことにかんがみて、ラケダイモーンからは四十艘を加勢に送ることを決議した。


トゥーキュディデース著「戦史」巻8・5~6 から


しかし、ペロポネーソス同盟の中の有力な一国であるコリントスがこの軍派遣に賛成せず、そのためにペロポネーソスの艦隊はキオスに向うことが出来ずにいました。そうこうしているうちにアテーナイがキオスの離叛の気配を察知しました。

やがてアテーナイ側の方がキオスの動静にただならぬものを感じはじめて、指揮官の一人アリストクラテースをキオスに送りかれらの行動に不審ありと糺問させた。なおキオス側がそのようなことはないと否定する場合には、忠誠の保証として同盟海軍の一翼を担う軍船をアテーナイに派遣せよ、との本国政府の命令も伝えられた。そこでキオス側は軍船七艘をアテーナイに送った。このときキオスが船隊を送ったのは、次の諸理由による。一つにはキオスの大多数の市民は、離叛計画が醸成されつつあることを知らなかったし、また一つには貴族派とりわけ密謀加担者らは、事が万全の軌道に乗るまでは一般市民を敵にして争うことを避けようとしていた。さらにまた、ペロポネーソス勢の動きが遅滞しているのを見て、来援はもはや期しがたいと思ったことも、一因となった。


トゥーキュディデース著「戦史」巻8・9 から

上の引用文で「貴族派とりわけ密謀加担者らは、事が万全の軌道に乗るまでは一般市民を敵にして争うことを避けようとしていた」というところが注意をひきます。キオスでは(他のギリシア諸都市のように)民衆派と貴族派が表立って敵対するようなことはなく、キオスの為政者たちは内乱を避けるだけの知恵を持っていたように見えます。