神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

コース(10):プトレマイオス朝エジプト治下

 アレクサンドロス大王死後のBC 310年、アレクサンドロスの後継者を名乗る将軍プトレマイオスはエジプトでの王位を得、プトレマイオス1世と名乗り、同じく後継者を名乗るアンディゴノスからコースを奪い取りました。こうしてコースはプトレマイオス朝エジプトの支配下に入りました。プトレマイオス朝の王たちは、コースをエーゲ海における海軍の前哨基地として利用しました。また、コースはプトレマイオス家の王子たちの教育の場となり、アレクサンドリア大図書館の支部がコースに建設されました。これらのことによりコースは繁栄を得ました。


 この頃の繁栄を象徴する2人の人物を紹介して、私のコースについての物語を終えようと思います。


 ひとりは、コースのアペレースと呼ばれた画家です(以下、日本語版ウィキペディアの「アペレス」の項から情報を得ました)。「コースのアペレース」と言ってもコース生まれではありません。生れはイオーニアのコロポーンだと推定されています。ではなぜ「コースの」という形容句がつけられているかと言いますと、コースで絵を描いている最中に亡くなったからです。その絵はギリシア神話における愛と美の女神アプロディーテーを描いたもので「海から上がるアプロディーテー」という題がついていました。アペレースが亡くなったことでその絵は未完となりましたが、彼の制作を引き継げるだけの技量を持った画家が存在しなかったため、その絵は未完のままにされた、ということです。では、それはどんな絵かというと、残念ながらこの絵は現存しないということです。この絵だけでなくアペレースの絵は、全て失われてしまったそうです。ローマ帝国の政治家で著作家でもあった大プリニウスはアペレースのことを、その前にも後にも並ぶ相手のない画家だったと評価していたということです。アペレースはマケドニアのピリッポス2世の宮廷に招かれ、その宮廷画家となりました。その縁で、ピリッポスの子のアレクサンドロス大王にも仕えることになったということです。彼の描いた絵が全て失われた今では、「海から上がるアプロディーテー」がどれほど素晴らしかったか知ることは出来ません。


 もう一人はコースのピリタスです。彼についての情報は英語版Wikipediaの「コースのピリタス」の項から得ました。こちらは、コースの生まれだと推定されています。ピリタスは学者であり詩人でした。彼はめったに使われない単語の意味を調べて語彙集を作りました。そのなかにはホメーロスの使用した古い単語も含まれています。また詩人としては、エレギア調の詩「デーメーテール」が最も有名で、この詩は後の世の詩人たちから非常に尊敬を受けたとのことです。しかし、彼の作品もまた、そのほとんど全てが失われてしまったということです。「デーメーテール」の詩句の断片が現在まで残っているのですが、そこには穀物の女神デーメーテールが自分の娘ペルセポネーを探し回った有名な神話が物語られていました。その物語はコースでの変容を反映しているらしく、デーメーテール女神がコースに到着したと物語っています。そしてコースの建設者メロプスの一族が女神を迎え、またその当時の住民たちも女神を暖かくもてなした、と述べています。


(ピリタス)


 BC 308年にコースでプトレマイオス1世の息子プトレマイオス2世ピラデルポスが生まれます。すると、プトレマイオス1世はピリタスをこの王子の教育係に任命しました。おそらくBC 297年にピリタスはアレクサンドリアに移住し、王子の教育係として、また王家の学芸の長官として活躍しました。そしてそこで詩人のヘルメシアナクスとテオクリトスと、文法家のゼーノドトスを教えました。ゼーノドトスはエペソスの生まれで、彼については「エペソス(11):アルテミス神殿再建」で少しご紹介しました。ゼーノドトスはのちにアレクサンドリア大図書館の館長になった人です。このように見てくると、ピリタスは、アレクサンドリアの学者コミュニティーの初期を飾る人物だったわけです。ピリタスはBC 290年代後半にコースに戻り、そこでも詩人と学者のサークルを運営しました。


 これで、私のコースについての物語は終わりです。読んで下さり、ありがとうございます。