神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ナクソス(10):ペルシアの侵攻(2)

BC 499年、ナクソスはペルシア海軍(その中にはイオーニアのギリシア軍も含まれる)の侵攻を撃退しましたが、この侵攻を主導したミーレートスの僭主アリスタゴラスは自分の責任が問われることが心配になってきました。そして心配のあまりペルシアに対して叛乱を起こすという挙に出てしまいました。これがイオーニアの反乱です。
 このイオーニアの反乱はミーレートスのみならず、全イオーニア、カリア、キュプロス島に拡がり、5年間も続きました。その経過については、以下をご覧ください。

 BC 494年、ミーレートスが陥落することでこの反乱は終息します。その間、ナクソスは反乱に参加せず、中立を保っていました。


当初、イオーニアの反乱には、ペルシア支配下にはなかったアテーナイとエレトリアの2国が参加していました。この2国の軍隊はペルシアに破られて早々に退散してしまったのですが、それでもペルシア王ダーレイオスはこの2国の介入に怒りました。イオーニアの反乱の知らせがダーレイオスに届いた時に、以下のような出来事があったとヘーロドトスは報告しています。

(ペルシアの小アジア支配の根拠地である)サルディスがアテナイイオニアの連合軍によって占領され焼け落ちたこと(中略)などがダレイオス王に報告されたが、伝えられるところによると、王はこの報告を聞いたとき、イオニア人については、やがて彼らが離反の報いをうけることをよく承知していたので、一向意にもとめなかったが、アテナイ人とは何者か、と訊ねたという。その答えをきくと、王は弓をとりよせ、それを手にとると矢を番(つが)え天に向って放った。そして天空を射ながら「ゼウスよ、アテナイ人に報復することを、われに得せしめ給え」といったという。そうしてから今度は、召使の一人に、食事の給仕をするたびに王に向って「殿よ、アテナイ人を忘れ給うな」と三回いえと命じたということである。


ヘロドトス著「歴史」巻5、105 から


イオニアの反乱が終息し、その善後処置も終わった時、ダーレイオスはアテーナイとエレトリアを攻撃する決心をしました。彼は、ダティスという者と自分の従兄弟に当るアルタプレネスの2人を遠征軍の司令官に任命し

この二人に、アテナイエレトリアを隷属せしめ、奴隷とした者たちを自分の面前に曳き立ててくるようにとの命を下し出発せしめたのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、94 から

これはBC 490年のことでした。今回準備された遠征軍の規模は、前回ナクソスを攻撃した時の200隻ではなく、600隻の規模でした。しかもこの艦隊はエレトリアを攻撃する前にナクソスに立ち寄って占領する予定でした。艦隊はエーゲ海を東から西へ、サモス島イカロス島ナクソス島のコースをたどりました。

 彼らがイカロス海からさらに進んでナクソスに接岸したとき――遠征の手始めにまずナクソスを討つのがペルシア軍の企図であった――、ナクソス人は先年の経験を覚えていて山中に逃避し、ペルシア軍を迎え撃とうとはしなかった。そこでペルシア軍は捕えただけのナクソス人を奴隷にし、聖域と市街に火を放って焼き、そうしてから他の島に向った。


ヘロドトス著「歴史」巻6、96 から

ナクソス人たちは、今回の大軍に立ち向かうのは無駄と考えて、山中に避難したのでした。こうしてナクソスの町は破壊され、ペルシアの支配下に入ったのでした。