神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ナクソス(11):ペルシアからの離脱

ペルシア軍はナクソスを破壊したあと、エウボイア島のエレトリアを攻略し、次にアテーナイに向いました。アテーナイ軍はアテーナイ近郊のマラトーンでの戦いでペルシア軍を破ります。ペルシア軍はそのまま撤退しました(第一次ペルシア戦争)。しかし、アテーナイが勝ったからといってナクソスが独立を取り戻したわけではありません。ナクソスはまだペルシアの支配下のままでした。こうして10年が経ちます。


BC 480年、新たにペルシアの王位に就いたクセルクセース(ダーレイオスの息子)は、さらに大規模な海陸両軍を自ら率いてギリシア全土を制圧しようとします(第二次ペルシア戦争)。彼らはトラーキア(現在のブルガリア方面)を経由して北から南下してきました。ギリシア側は途中のテルモピュライでペルシア軍を食い止めることが出来ず、アテーナイ沖のサラミース島付近の海域に軍船を集結し、決戦を挑みました。この時、ナクソスはペルシア側で戦うために艦船の派遣をペルシアから命ぜられていました。しかし、ナクソスの艦船はその命令を無視してギリシア側に付いたのでした。

ナクソス人は船四隻を出した。彼らは本来他の島の住民と同様に、ペルシア軍に加わるべく国許から派遣されたものであったが、デモクリトスの熱心な勧めに従い、受けた指令を無視してギリシア陣営に走ったのである。このデモクリトスは町の名士で当時三段橈船の指揮官であった。


ヘロドトス著「歴史」巻8、46 から


このサラミースの海戦でギリシア側が勝利を収めました。上のナクソスの4隻がサラミースの海戦でどのように戦ったのかについてヘーロドトスは残念ながら伝えていません。きっと奮戦したことでしょう。ペルシア海軍はこの敗戦ののち、エーゲ海の東側のサモスまで撤退します。こうしてナクソスは独立を取り戻しました。BC 477年にアテーナイの主導で対ペルシア軍事同盟であるデーロス同盟が結成されるとナクソスはそれに参加しました。

(デーロス島の風景)


ここで話を終えれば、ナクソスの物語はハッピーエンドになるのですが・・・・歴史は続きます。


実はこのあと、ナクソスはデーロス同盟を離脱する最初の国になるのでした。BC 468年頃のことです。ナクソスがアテーナイから離反したのは、アテーナイが同盟内で段々強権的になっていったためです。離反したナクソスはアテーナイに攻められて攻城戦ののち降伏し、アテーナイの支配下に置かれました。そしてBC 447年にはアテーナイ人植民者を受け入れざるを得なくなり、従来のナクソス市民は新来のアテーナイ人に地代を払わなければならなくなったのでした。

同盟から離脱したナクソス人に対してアテーナイは兵を進め遂に城攻めにして降伏させた。これはかつて同盟国であったものがその権限を奪われてアテーナイの隷属国となった最初の例であるが、これと同じ運命は残余の同盟諸国をも次々に襲うこととなった。


トゥーキュディデース「戦史」 巻1・98より


トゥーキュディデースは、アテーナイに屈服した同盟諸国一般について以下のように述べていますが、これはナクソスにおいても同様だったのでしょう。

故国から離れることを嫌った多くの同盟諸国の市民らは、遠征軍に参加するのを躊躇し、賦課された軍船を供給する代りにこれに見合う年賦金の査定をうけて計上された費用を分担した。そのために、かれらが供給する資金を元にアテーナイ人はますます海軍を増強したが、同盟諸国側は、いざアテーナイから離叛しようとしても準備は不足し、戦闘訓練もおこなわれたことのない状態に陥っていた・・・


トゥーキュディデース「戦史」 巻1・99より

さて、その後ずっとナクソスがアテーナイの支配下にあったかといえばそうではなく、ペロポネーソス戦争末期(BC 404年)にはスパルタの将軍リューサンドーロスによってアテーナイ人入植者はアテーナイに追放されます。その後についてはあまりよく分かりませんので、ここで私のナクソスについてのお話は終わりにします。