神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ナクソス(8):リュグダミス

BC 6世紀の中頃まで時代を下ります。この頃ナクソスは貴族制の都市国家でしたが、その貴族の中にどうも民衆に対して不正を働いた者、あるいは一族がいたようです。民衆はそのことで貴族に対して憤っていました。その時、リュグダミスという人物がいて、彼は貴族の出身なのですが、民衆の味方をして彼らの指導者になりました。彼に多くの支持者が出来た時、たまたまアテーナイの僭主ペイシストラトスが政変でエレトリアに亡命するという事件が起こりました。

ペイシストラトスは自分に対して策謀がめぐらされているのを知るや、綺麗さっぱりと国を退散し、エレトリアへ行き、ここで息子たちと計画を練った。
 独裁権を奪回せよというヒッピアスの意見が通ったので、彼らになんらかの恩義を感じている町々から、義捐金を募りはじめた。


ヘロドトス著 歴史 巻1、61 から

 

リュグダミスにはこれが、自分がナクソスの支配権を得るチャンスだと考えました。彼は、ペイシストラトスを援助することでペイシストラトスに貸しを作り、彼がアテーナイの支配権を回復したら今度は自分がナクソスの僭主になるのに力を貸してもらおう、と考えたのでした。それにリュグダミスは商工業を保護するペイシストラトスの政策を評価しており、同じようなことをナクソスでも行いたいと考えておりました。そこで、リュグダミスは自分の支持者を手兵とし、軍資金を持参してペイシストラトスの許に馳せ参じたのでした。

多数の都市が募金に応じ、その金額は莫大なものになったが、中でもテバイの醵金額は他の都市を凌駕した。話を切り詰めていえば、いくばくかの期間が過ぎたのち、彼らの帰国の手筈万端が整ったのである。すなわちアルゴス人の傭兵がペロポネソスから到着するし、またリュグダミスというナクソスの男が、軍資金と手兵を携え、異常な熱意をもって、自発的に参画してきた。


ヘロドトス著 歴史 巻1、61 から


めでたくペイシストラトスがアテーナイの支配権を回復すると、援助の褒美として今度はペイシストラトスがリュグダミスに軍をつけてナクソスを攻略し、リュグダミスをナクソスの僭主の座に据えたのでした。BC 546年のことでした。

また先頃の戦闘(=ペイシストラトスがアテーナイに侵攻した戦闘)ですぐに逃亡せず最後まで踏み留まったアテナイ人の子供を人質にとり、これをナクソス島に移した。ペイシストラトスは既にこの島を攻略しており、リュグダミスに統治させていたのである。


ヘロドトス著 歴史 巻1、64 から


後世、哲学者アリストテレースは、貴族出身者が民衆指導者となって、次に僭主になる者の例としてこのリュグダミスを挙げています。

しかし寡頭制は主として二つの最も明瞭な仕方で変わり、その一つは寡頭制の国民権に与る人々たちが大衆に不正を働く場合である、というのはその場合にはどんな者でもが彼らの先導者となるのに充分な者だからである、そしてこのことはその指導者がたまたま寡頭制の国民権に与っている人々自身のうちから出てくるようなことがあった場合において特にそうである、例えばナクソスのリュグダミスがちょうどそのような人であるが、彼は後にはまたナクソス人たちの僭主となった。


アリストテレス政治学、第5巻、第6章、1節」より


ところでリュグダミスがナクソスの支配権を握ったBC 546年というのは、ペルシアによるリュディアの首都サルディスの陥落の年でもあります。リュグダミスはやがてこのペルシアがナクソスを破壊することになることを予想していたでしょうか? それともまだ海軍というものを持っていなかった当時のペルシアを侮っていたでしょうか?


ペイシストラトスに倣ってリュグダミスも従来の貴族の力を抑え、商工業従事者を保護する政策を採ったので、ナクソスは繁栄しました。そして勢力圏をパロス島アンドロス島など近隣の島々に拡げていきました。また、西のサモス島の僭主ポリュクラテースとは同盟を結び、サモスミュティレーネーミーレートスと戦った時には援軍を派遣しました。BC 530年にリュグダミスは巨大なアポローン神殿の建設を始めました。この企ては、アリストテレースが「政治学」で、僭主の支配手段のひとつとして述べていることを思い出させます。(そこにはリュグダミスの名前はありませんが)

また被支配者たちを(中略)日々の仕事に忙しくして謀反する暇もないようにすることは僭主の策である。例えばエヂプトのピラミッドやキュプセロス一族の奉納物やペイシストラトス一族によるゼウス・オリュンピエイオスの神殿建立やサモスにあるポリュクラテスの建造物などがそれである(というのはこれらは凡て同一の効果、すなわち被支配者たちの多忙と貧乏とをもたらすのだから)。


アリストテレス政治学、第5巻、第11章、8~9節」より

彼もまた、民衆を多忙にさせて謀反する暇もないようにさせるために、巨大な神殿を作らせたのかもしれません。この神殿は結局完成しませんでした。現代まで残っているのはその正面の門の一部のみです。


BC 527年にアテーナイのペイシストラトスが死去すると、後ろ盾を失ったリュグダミスの支配に影がさしてきます。BC 524年、スパルタがナクソスに兵を派遣してリュグダミスの支配を終了させました。おそらくナクソス内部でもそれに呼応する動きもあったと思います。スパルタはこの頃の国是として他国が伝統的な貴族制であるのを好み、進取の精神に富んだ僭主制を嫌っていました。そして様々な都市国家に介入してその僭主制を覆してきました。ナクソスへの派兵もその一環だったのです。


ところでリュグダミスの支配が終わっても、ナクソスの繁栄はそのまま続きました。彼の政治的な遺産は残ったわけです。