神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ナクソス(7):BC 10世紀からBC 7世紀まで

イオーニア人はBC 1000年頃にナクソスに住みついたようです。おそらく、当初は王制をとっていて、それがやがて貴族制に代わっていったと推測します。その後のことで分かっているのは、BC 735年、北のエウボイア島にあるカルキスと共同で、シシリー島に植民市を建設したことです。これはシシリー島(当時の言い方では「シケリア島」)での初めてのギリシア人都市でした。この植民市は母市と同じナクソスという名前をつけられました。下に引用するトゥーキュディデースの記事には、ナクソス人のことは出ておらず、カルキス人が単独でこの植民市を建設したように書かれていますが、前野弘志著「ケルソネーソス、ナクソス、エウボイア植民:『エンクテーマタ型植民』の検討」によればこれはナクソスと共同で建設したとのことです。

ギリシア人の中で最初にやって来たのは、エウボイア島のカルキス人であった。かれらはトゥークレースを植民地創設者にいただいて渡来すると、ナクソス市を建設し、現在のナクソス市の外側にある、開国神アポローンの祭壇をこの時に建立した。ちなみに今日でもギリシア本土の祭祀に詣でる使がシケリアを出航するときには、先ず最初にこの祭壇で犠牲をささげることになっている。それから一年おいて、コリントスのヘーラクレイダイ一門のアルキアースが、シュラクーサイ市を建設した。かれは、今は市の内郭となり島ではなくなっているが、かつては島であった場所からシケロス人を駆逐して、市を建てたのである。やがて陸に面するその外側にも城壁が築きめぐらされてからは、住民も多くを数えるに至った。他方、トゥークレースをいただくカルキス人らは、シュラクーサイが建設されてから五年目に、ナクソスを基地としてシケロス人と戦い、これを駆逐してレオンティーノイ市を建設、つづいてカタネーを建設した。


トゥーキュディデース著「戦史」巻6・3 から


ナクソスが植民団を派遣した理由は分かりませんが、それから約100年後に起きた、ナクソスの南に位置するテーラ島からキュレーネーへの植民(「テーラ(5):バットス」参照)を考慮すると、人減らしの意味があったのかもしれません。まだこの頃ナクソスはそれほど繁栄しておらず、人口増加に対応出来ていなかったのでしょう。それでもこの頃からナクソスは特産品として、研磨材として使うエメリーという鉱石の交易が始まり、それが富の蓄積につながっていきました。


その後、BC 710年頃カルキスが、同じエウボイア島のエレトリアと戦争を始めます。いわゆるレーラントス戦争です。私はナクソスもこの戦争に巻き込まれたのではないか、と推測します。それは上記の植民市建設でナクソスカルキスは協力関係にあったためです。トゥーキュディデースによれば、ギリシアの多くの都市がカルキスエレトリアのどちらかの味方をして戦争に参加したということです。ナクソスは当然カルキスの味方をしたことでしょう。この戦争はBC 650年頃までだらだらと続き、カルキスエレトリアはそれまで富裕を誇っていたのが、この戦争のせいで双方とも衰退してしまうのでした。しかし、逆にナクソスはこの頃から勢力を伸ばし、キュクラデス諸島での交易の中心地になっていきます。キュクラデス諸島の宗教的中心地は、ナクソスの北にあるデーロス島でしたが、そのデーロス島の聖なる道にそって、この頃ナクソスは10頭以上のライオンの像を奉納しており、その頃のナクソスの繁栄を示すものとなっています。