神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ミーレートス(2):イオーニア人

トロイア戦争後の時代は混乱の時代でした。この混乱の時代にギリシア人の一派であるイオーニア人がミーレートスにやって来て、町を占領することになるのですが、このイオーニア人はかつてはギリシア本土のペロポネーソス半島の北側に住んでいました。

ギリシアの伝説ではトロイア戦争が終わって80年目に、ヘーラクレースの後裔を称する人々に率いられたドーリス人が北からペロポネーソス半島に侵入して、そこに住んでいたアカイア人を追い出したことになっています(上図の赤矢印)。このアカイア人というのはギリシアの神話伝説で主に活躍する種族です。トロイア戦争ギリシア方はホメーロスの「イーリアス」と「オデュッセイアー」ではアカイア人と呼ばれていました。このアカイア人は追出されてペロポネーソス半島の北側のイオーニア人の領域に移ります(上図の紫色の矢印)。

ドーリス人によってアルゴスとラケダイモーンから追放され、アカイア人自身とオレステースの息子である彼らの王ティーサメノスは、イオーニア人たちに使者を送り、戦争なしで彼らの間で定住することを申し出ました。しかし、イオーニア人の王たちは、アカイア人が彼らと一緒になった場合、ティ-サメノスの男らしさと高貴な血統のために、彼が一緒になった人々の王に選ばれることを恐れていました。
 イオーニア人たちはアカイア人たちの提案を拒否し、彼らと戦うために出てきました。戦いでティーサメノスは殺され、イオーニア人はアカイア人に打ち負かされ、ヘリケーに逃げ、そこで包囲され、その後停戦の下で出発することが許されました。


パウサニアース「ギリシア案内記」7・1・7~8 より

アカイア人の王ティーサメノスは戦死したのですが、イオーニア人は戦争に負けました。彼らは今までの領土から出発し、アテーナイに受け容れてもらうことが出来ました。

イオーニア人たちはアッティカに行き、アテーナイ人と彼らの王、アンドロポンポスの子メラントスによってそこに定住することを許されました。


パウサニアース「ギリシア案内記」7・1・9 より

こうしてイオーニア人たちはアテーナイに住むことが出来たのですが、その後、メラントスの子コドロスがアテーナイ王の時に、ドーリス人がアテーナイに攻めてきました。

アッティカ(=アテナイを中心とする地方)がペロポネーソス人(=ペロポネーソス半島の住民。ここではドーリス人の意味)に攻められた時、コドロスが父の後継者として王であったが、敵がデルポイで、アテーナイ王を殺さなければ、勝利を得るであろう、との神託を受けたことを、デルポイクレオマンティスにより知らされ、(コドロスは)貧しい身なりをして敵陣に近づき、兵と喧嘩して、わざと殺された。敵はこれを知って軍を引いた。


高津春繁著 ギリシアローマ神話辞典 より

デルポイの神託は、アテーナイ王を殺さなければドーリス勢はアテーナイを征服出来ると告げていました。それを知ったアテーナイ王コドロスはわざと殺さることでアテーナイを守ることが出来ると考えたのでした。そしてドーリス人の指揮官は、コドロスが自分の兵士によって殺されたことを知り、神託の告げることと照らし合わせて、自分がアテーナイを征服出来ない運命にあることを悟り、征服をあきらめたのでした。


コドロス王の時にドーリス人がアテーナイを攻めてきたという話は、ヘーロドトスも書いています。

ドーリス族のものがアッティカに到来したのは、これで四回目であった。(中略)最初の侵入は、ドーリス族がメガラ市を創建した時のことで、この出征を当時のアテナイの王位にあったコドロスの名にちなんで呼ぶのは、多分正しいのであろう。


ヘロドトス著 歴史 巻5、76 から


イオーニア人とミーレートスの話からは脱線してしまいますが、このコドロスの遠い子孫に、有名な哲学者のプラトーンがいるということです。