神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

サモトラーケー(3):ペルシア戦争まで

BC 8世紀にギリシア人がサモトラーケーにやってきて町を作ったあと、サモトラーケーの町にはどんなことがあったでしょうか? これについてはあまり伝わっていないようです。ただし、島から北の大陸側のトラーキアに領土を拡げていったということは推測出来ます。のちのことになりますが、BC 480年にペルシアの大軍がこのトラーキア地方を西に向って進軍した時に、サモトラーケー人の作った砦があったことをヘーロドトスは記しています。

さて(ペルシア王)クセルクセスはドリスコスを発してギリシアに向ったが、征旅の途中で次々に出会う者を強制的に従軍せしめた。それというのもすでに本書で述べたごとく、テッサリアに至るまでの全域は、先にはメガバゾス後にはマルドニオスによって平定されており、ペルシア王の隷下に入り朝貢国となっていたからである。
 さてドリスコスから行動を起した遠征軍は、先ずサモトラケ人の築いたいくつかの砦を通過したが、それらの内最西端にあるのがメサンブリアという町である。この町と境を接してタソス人の町ストリュメがあるが、この二つの町の間をリソスという河が貫流している。当時この河はクセルクセス軍に給水するには水量が足らず、涸渇してしまった。


ヘロドトス著「歴史」巻7、108 から

隣のタソス島の住民もやはりトラーキアに領土を拡げていました。それでサモトラーケー人の作った町メサンブリアと、タソス人の作った町ストリュメが隣接していたのでした。タソス島にはBC 7世紀に活躍した詩人アルキロコスがいます。彼の詩の中にはトラーキア人との戦いを歌ったものがあります。おそらく、サモトラーケーにギリシア人がやってきてからの出来事の中にはトラーキア人との抗争が大きな部分を占めていたのではないか、と推測します。以下は、アルキロコスがトラーキア人との戦争の予感を歌った詩の断片です。グラウコスというのは、アルキロコスの戦友だと推定されています。


アルキロコス

グラウコスよ、見よ! すでに波は海を深く乱し
雲はギュライの山頂の周りに現われている。嵐の前兆だ。
予期せぬところから、恐怖が訪れる。


アルキロコス 断片56Dより


BC 8~7世紀にエウボイアの島の2つの都市カルキスエレトリアの間にレーラントス戦争が起こりました。その時、サモスカルキスの味方をし、エレトリア側についたミーレートスと戦いました。この時サモスの植民市であったサモトラーケーもこの戦争に参加したのかどうか気になります。しかし、これははっきりしません。


やがて東からペルシア王国の勢力が伸びてきます。英語版Wikipediaの「サモトラーケー」の項によればBC 508年にサモトラーケーはペルシアの支配下に入ったということです。ヘーロドトスはサモトラーケーがペルシアに征服された時のことを直接には書いていませんが、これはペルシア王がダーレイオスの頃で、おそらくダーレイオスがスキュティア(今のウクライナあたり)を攻略して失敗したあと、部下のメガバゾスにトラーキアの征服を命じた時のことだと思います。


BC 480年のペルシア王クセルクセースによるギリシア本土侵攻の際には、サモトラーケーは水軍を派遣し、ペルシア側で戦いました。彼らは、アテーナイの沖で行われたサラミースの海戦の時に勇戦したということです。

この混乱の最中には次のような事件もあった。船を失ったフェニキア部隊のあるものが、(クセルクセース)王の許へきてイオニア人を讒謗し、自分たちが船を失ったのはイオニア人のせいであり、彼らは裏切者であると訴えたのである。ところが奇妙な廻り合せから、イオニアの将領たちは破滅を免れ、誹謗したフェニキア人が次のような報いを受けることになった。フェニキア人たちが右のような訴えをしているさ中に、サモトラケの船がアテナイの船に突入した。アテナイの船が沈没しようとしたとき、アイギナの船が急遽駆けつけて、サモトラケの船を撃沈した。ところがサモトラケ人たちは投槍に長じていたので、沈みゆく船上から槍を投げて敵船の戦闘員を一掃し、その船に乗り移ってこれを占領してしまったのである。この事件がイオニア人を救うことになった。というのはサモトラケ人が見事な手柄を立てたのを見たクセルクセスは、敗戦のため極度に心痛し、誰彼の差別なく咎め立てしていた矢先であったので、フェニキア人に向き直ると、自分自身臆病な振舞いをしながら、自分たちより勇敢なものたちを誹謗するようなことは許せぬといって、彼らの首を刎ねよと部下に命じた。


ヘロドトス著「歴史」巻8、90 から

これはクセルクセースが、サモトラーケー人をイオーニア人に属する種族と見ていたから、サモトラーケー人の勇戦を以て、イオーニア人が勇敢である、と判断したということなのでしょう。

サモトラーケー(2):カドモス

サモトラーケーからトロイアの王家が発祥したことをお話ししましたが、サモトラーケーはギリシア本土のテーバイとも神話上の関係があります。テーバイがフェニキアの王子カドモスによって作られたという伝説は「テーラ(3):エウローペーを探すカドモス」でご紹介しました。


右:エウローペーと、牡牛に化けたゼウス


このカドモスは、神々の王ゼウスがさらっていった妹のエウローペーを探してエーゲ海域を探し回っていたのですが、その途上、サモトラーケーにもやってきたのだと、サモトラーケーでの伝説は伝えます。ゼウスは美しい牡牛に化けてエウローペーに近づき、彼女がたわむれにその牡牛の背に乗ると、やおら沖に向かって走り出し、エウローペーを誘拐したのでした。牡牛に化けたゼウスはエウローペーをクレータ島まで連れて行き、そこで神としての姿を現し、やがてエウローペーはゼウスの子を宿したのでした。このエウローペーを探してカドモスはエーゲ海域を巡ったのですが、結局エウローペーを探し当てることは出来ませんでした。さて、サモトラーケー島に来たカドモスは、ゼウスとエーレクトラーの娘のハルモニアーと出会い、結婚したと言います。この伝説ではハルモニアーは、イーアシオーンとダルダノスの姉か妹ということになります。ハルモニアーというのは英語のハーモニーの語源になっており、調和という意味です。つまり、ハルモニアーは調和の女神です。通常語られている伝説では、カドモスがハルモニアーと結婚するのは、カドモスがテーバイを建設した後のことです。しかし、サモトラーケーでの伝説ではまだカドモスがギリシア本土に向う前にハルモニアーと結婚することになります。また、通常の伝説ではハルモニアーはゼウスとエーレクトラーの娘ではなく、戦いの神アレースと愛の女神アプロディーテーの娘であると語られます。


それはともかくカドモスとハルモニアーの結婚は宗教的に何か特別な意義があったらしく、伝説では天上の神々が地上に降りて、この結婚式に参列したのだといいます。しかし、それがなぜなのか判然としません。サモトラーケーにおいてさらに謎めいているのは、サモトラーケーの密儀という秘密の信仰、秘密の宗教儀式が古代に存在し、そこで崇拝されている神々の1柱がカドミロスという名前であると言われており、その名前は小さなカドモスという意味を持っていることです。このこととカドモスとハルモニアーの結婚のことは何か関係があるのかもしれません。そしてカドモスとハルモニアーの結婚の重大な意味はこの密儀の中で明らかにされていたのかもしれません。サモトラーケーの密儀についてはあとで述べたいと思います。


また、カドモスがフェニキアの王子であると語られていることも気になります。フェニキアというのは今のレバノンあたりを指しますが、古代のフェニキア人は航海が得意で、地中海のさまざまな場所に植民市を建設していました。サモトラーケー島の西に浮ぶタソス島がかつてフェニキア人の植民市であったことをヘーロドトスが伝えています。なので、サモトラーケー島にかつてフェニキア人がやってきたとしても不思議ではありません。するとギリシア人がやってくる前のサモトラーケーには、ペラスゴイ人やカーリア人のほかにフェニキア人もいたのでしょうか? いろいろ想像が膨らみます。トゥーキュディデースは、ギリシア人到来以前のエーゲ海の島々はフェニキア人とカーリア人のものであったと述べています。

当時島嶼にいた住民は殆どカーリア人ないしはポイニキア人(=フェニキア人)であり、かれらもまたさかんに海賊行為を働いていた。これを示す証拠がある。今次大戦(=ペロポネーソス戦争)中にデーロス島がアテーナイ人の手で清められ、島で死んだ人間の墓地がことごとく取り除けられたとき判明したところでは、その半数以上がカーリア人の墓であった。これは遺体と共に埋められていた武器や、今日なおカーリア人がおこなっている埋葬形式から判った。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1、8 から


さて、神話の時代のサモトラーケーについては以上が伝えられていますが、これ以上のことは伝わっていないようです。ですので、ダルダノスがサモトラーケーからトロイアに移住したあと、そしてカドモスがテーバイに行ってしまったあとに、サモトラーケーで何が起こったのかが分かりません。ぼんやり分かっていることは、最初はペラスゴイ人とカーリア人が島に住んでいて、つぎに北からトラーキア人がやってきたということです。その後のことについてはストラボーンが「ある地理学者」の説を紹介しています。それによれば、不作が続いたためにトラーキア人が島を放棄したあと、ミュカレーにいたサモス人が島にやってきてサモトラーケーという名前を島につけた、ということです。なお、ミュカレーというのはサモス島のすぐ東の大陸側の岬の名前です。英語版のWikipediaのサモトラーケーの項によれば、ギリシア人がサモトラーケーにやってきたのはBC 8世紀のことだということです。しかし、パウサニアースは別の説を記しています(「ギリシア案内記」7.4.2~3)。それによれば、サモスの近くの大陸側の都市エペソスが、サモスはカーリア人と一緒になって自分たちイオーニア人たちに対して陰謀を企んだと非難してサモスを攻め、サモス人をサモス島から追放してしまいました。その際、一部のサモス人がサモトラーケー島に移り住んだといいます。大部分の人々はサモス島の近くの大陸側のアナイアに移り住み、10年後にはサモス島をエペソス人から奪還したということです。パウサニアースは、この時のエペソス王がアンドロクロスであったと述べており、さらにこのアンドロクロスがエペソスを建設したことを記していますので、もしそうだとするとこれはBC 10世紀頃の話となります。私としては、ストラボーンの紹介する説のほうが年代に矛盾しないと思います。

サモトラーケー(1):はじめに


サモトラーケー島は、エーゲ海の北東の隅にある島です。この北の大陸側はトラーキアといい、古代にはトラーキア人が住んでいました。この島は古くはサモス島と呼ばれていましたが、南にあるサモス島と区別するために「トラーキアのサモス」を意味するサモトラーケーという名で呼ばれるようになったといいます。ストラボーンはこの島がサモスと呼ばれた理由を、ある地理学者の説として2つ挙げています。

その地理学者によると、このトラーキアの島は、その高さからサモスと呼ばれていました。 というのは「サモイ」とは「高さ」を意味するからと彼は言います。・・・そしてこの地理学者は、昔、ミュカレーのサモス人が、作物の不足のために捨てられていたこの島に定住し、このようにしてそれはサモスと呼ばれたと言います。


ストラボーン「地理書」7の断片50aより

上の引用のなかで「その高さから」というのは、サモトラーケー島のまん中あたりに1,611mの高さのフェンガリ山があるからです。フェンガリというのは月と意味するそうで、そうするとこの山は翻訳すると「月山」になるようです(ちなみに日本の月山は標高1,984mだそうです)。ギリシア神話ではかつてトロイア戦争の時に、海神ポセイドーンがこの山の頂から、海を越えたトロイアの平原での人間たちの戦いを眺めていたということです。ポセイドーンはギリシア軍を応援していたのですが、神々の王ゼウスがトロイア側に肩入れしていて、そのためにギリシア軍が押されているのを見て憤慨したのでした。

だがけっして、眼はしの利かぬ見張りの役を 大地を揺る御神(=ポセイドーン)は
していなかった、とはすなわち、戦さや撃ち合いの様子を 不審の眼で、
森にゆたかなサモス(=サモトラーケー)の山の 絶頂(いただき)に高く御坐しながら、まもっておいでた、
トラーキアのである、そこから、つまりイーデーの峯が 隈なく見渡せ、
プリアモス(=トロイアの老王)の都城も、アカイア軍(=ギリシア軍)の船隊もみな見渡せるので、
その場所に 海から出て 御座を占め、アカイア勢がトロイエー方
圧倒されてゆくさまを かつは憐れみ、ゼウスに 劇しい怒を覚えた、


ホメーロスイーリアス」第13書 呉茂一訳 より(10~20行あたり)


サモトラーケー島はトロイアに縁のある島で、そもそもトロイアの王統はこのサモトラーケーに発しているのでした。トロイアの王家の始祖はダルダノスというのですが、彼はゼウスとエーレクトラーの子としてサモトラーケーで生まれたのでした。エーレクトラーは天空を支えていると言われている巨人アトラースの娘でした。彼女は神々の王ゼウスとの間にイーアシオーンとダルダノスの兄弟を生みました。この兄弟はサモトラーケーに住んでいました。兄のイーアシオーンは農耕の女神デーメーテールに恋して襲ったために、ゼウスによって雷霆を落とされて死んだといいます。あるいはデーメーテールがイーアシオーンに恋して2人の間には富の神プルートスが生れたともいいます。一方、ダルダノスのほうはイーアシオーンが雷霆に撃たれたのを見てサモトラーケーを去り、トロイア地方(この頃はその名前がありませんでしたが)に移住して、そこの王テウクロスの娘バティエイアと結婚しました。王の死後、その王位を引き継ぎ、自分の支配する地方に自分の名前をつけてダルダニアと呼びました。この名前は今もダーダネルス海峡の名前に残っています。このダルダノスの子がエリクトニオスでそのまた子供がトロースです。トロースの時に町の名前をトロイアと呼ぶようになりました。


トロイアの王家がサモトラーケーに発するというこの伝説は、何か歴史を反映しているのでしょうか? 英語版のWikipediaの「サモトラーケー」の項によれば初期のサモトラーケーの住民の変遷は以下のとおりです。

古代からの伝説の説明は、サモトラーケー島には最初にペラスゴイ人とカーリア人が住み、後にトラーキア人が住んでいたというものです。BC 8世紀の終わりに、島はサモス島のギリシア人によって植民されました。この島からトラーキアのサモスという名前が付けられ、後にサモトラーケー島になりました。(中略)考古学的証拠は、ギリシア人の入植がBC 6世紀にあったことを示唆しています。


英語版のWikipediaの「サモトラーケー」の項より

ペラスゴイ人というのはギリシアの先住民らしいのですが、これがどのような民族だったのか、はっきりしません。カーリア人というのは小アジアの南西に住んでいた民族です。トロイア人がどの民族に属していたかについても定説がないのですがあえて推測すると、私はトロイア人はルウィ語系の言葉を話していたと考えています。ルウィ語というのはヒッタイト語に近い言語です。一方、カーリア人が話していたカーリア語もルウィ語やヒッタイト語に近い言語と考えられています。ペラスゴイ人がどのような言語を話していたかについては私は何も意見がありません。サモトラーケー島にかつてカーリア人が住んでいたならば、サモトラーケー島とトロイアには近縁の種族がいた、ということになりそうです。

サモトラーケー:目次

1:はじめに

サモトラーケー島は、エーゲ海の北東の隅にある島です。この北の大陸側はトラーキアといい、古代にはトラーキア人が住んでいました。この島は古くはサモス島と呼ばれていましたが、南にあるサモス島と区別するために「トラーキアのサモス」を意味するサモトラーケーという名で呼ばれるようになったといいます。ストラボーンはこの島がサモスと呼ばれた理由を、ある地理学者の説として2つ挙げています。その地理学者によると、このトラーキアの島は、その高さからサモスと呼ばれていました。というのは・・・・


2:カドモス

サモトラーケーからトロイアの王家が発祥したことをお話ししましたが、サモトラーケーはギリシア本土のテーバイとも神話上の関係があります。テーバイがフェニキアの王子カドモスによって作られたという伝説は「テーラ(3):エウローペーを探すカドモス」でご紹介しました。右:エウローペーと、牡牛に化けたゼウス このカドモスは、神々の王ゼウスがさらっていった妹のエウローペーを探してエーゲ海域を探し回っていたのですが、その途上、サモトラーケーにもやってきたのだと、サモトラーケーでの伝説は伝えます。・・・・


3:ペルシア戦争まで

BC 8世紀にギリシア人がサモトラーケーにやってきて町を作ったあと、サモトラーケーの町にはどんなことがあったでしょうか? これについてはあまり伝わっていないようです。ただし、島から北の大陸側のトラーキアに領土を拡げていったということは推測出来ます。のちのことになりますが、BC 480年にペルシアの大軍がこのトラーキア地方を西に向って進軍した時に、サモトラーケー人の作った砦があったことをヘーロドトスは記しています。さて(ペルシア王)クセルクセスはドリスコスを発して・・・・


4:ヘーロドトスの密儀入会

サモトラーケーの町の事績についてはこれ以上あまり話すことを持ち合わせていません。それで話をサモトラーケーの秘儀のほうに持っていきたいと思います。ペルシア戦争が終わったのち、歴史家のヘーロドトスはペルシア戦争に至るまでと、ペルシア戦争の経緯を書き残すために、ギリシア世界のみならずエジプトやペルシアにも足を延ばして調査をしました。ヘーロドトスはその著作の中で、自分がサモトラーケーの密儀に参加したことをほのめかしています。カベイロイの密儀はサモトラケ人がペラスゴイ人から・・・・


5:カベイロイ(1)

前回ご紹介した、高津春繫氏の「ギリシアローマ神話辞典」の「カベイロイ」の項の記述の、根拠になるものを探していたところ、ネット上にキングス・カレッジ・ロンドンのヒュー・ボーデン教授の「名無しの神々」という報告(訳:佐藤 昇)という資料を見つけました。その中にロドスのアポロドーロス作の「アルゴナウティカ(=アルゴー号の冒険物語)」に付けられた古代の注のことが出ていました。この注は、カベイロイについてかなりの情報を提供しています。
まずヘレニズム時代に・・・・
6:カベイロイ(2)

次に、高津春繫氏の「ギリシアローマ神話辞典」の「カベイロイ」の項の記述にあった「前5世紀以後航海者の保護神とも考えられ、この点から彼らはディオスクーロイと同一視されるにいたった。」という点について検討してみます。ディオスクーロイというのは星座のふたご座で知られるギリシア神話に登場する双子の英雄カストールとポリュデウケースのことです。彼らは船乗りたちの守護神と考えられていました。カベイロイがディオスクーロイと同一視された、ということは、カベイロイは2柱である、と少なくとも・・・・


7:入信の儀式

サモトラーケーの秘儀で礼拝を受けていた神々をカベイロイと呼ばず、偉大なる神々と呼んだほうがよさそうですが、では偉大なる神々とは何なのかと言われると私には答がありません。なので、もうこれ以上サモトラーケーの秘儀の神々について書かないほうがよいように思います。神話によればサモトラーケーの秘儀は、イーアシオーンとダルダノスの兄弟が創始したということです。ダルダノスは、トロイアに移り住んだのちトロイア人にこの密儀を教えたともいいます(イーアシオーンとダルダノスについては・・・・


8:ペラスゴイ人(1)

話はサモトラーケーから離れてしまいますが、ペラスゴイ人とは何者なのか、自分なりに追及してみたいと思います。もちろん、専門家の間でもペラスゴイ人がどのような民族なのかいまだに分かってはいない問題なので、私の想定など根拠はほとんどないことでしょう。まずホメーロスの「イーリアス」には、トロイアに味方する者たちとしてペラスゴイ人が登場します。またヒッポトオスは槍に名だたるペラスゴイのうからやからを 率いて来た、土くれの沃(こ)えたラリッサに住居する 者らであるが、・・・・


9:ペラスゴイ人(2)

このようにペラスゴイ人はルウィ語を話す人々だ、と断言したいところですが、気になることもあります。それは、レームノス島から出土したギリシア語ではない碑文の存在です。この碑文の文字はギリシアのアルファベットですが、書かれている言葉は明らかにギリシア語ではありませんでした。現代の学者はこの言語をレームノス語と名付けました。一方、ヘーロドトスはレームノス島にペラスゴイ人が住んでいたことを記しているので、ペラスゴイ人はレームノス語を話していたと想定したくなります。しかし・・・・


10:サモトラケのニケ

サモトラーケーの町自体は、歴史においてあまり活躍するところがありませんでしたが、偉大なる神々の聖地の名声はギリシア世界を越えて広まりました。そして、この聖地では、ヘレニズム時代、ローマ時代を通じて建造物が増えていきました。有名な彫像サモトラケのニケ(サモトラーケーのニーケー)もこの聖域に建てられたもので、ヘレニズム時代に作られたものでした。ニケ(長音を省略しないならば「ニーケー」)というのは古代のギリシア語で「勝利」の意味です。つまりこの彫像は勝利を擬人化した・・・・

グリューネイア(2):アポローンの神託所

さて、「(1):起源」でご紹介した創建伝説ではグリューネイアとペルガモンの2つの都市が並んで登場していました。このうちペルガモンはのちのヘレニズム時代にペルガモン王国の首都として大いに栄えました。しかし、その前の古典期にはあまり名の知られていない都市でした。ギリシアの文献にペルガモンの名前が初めて登場するのはクセノポーンの「アナバシス(一万人の退却)」で、これはBC 399年よりあとのことです。

一方、グリューネイアはBC 450年頃のヘーロドトスの「歴史」に登場しており、そこには古くからこの町があったことが書かれています。英語版のWikipediaのペルガモンの項によれば、このペルガモンとグリューネイアの創建伝説はBC 3世紀より前には確認されていない、ということです。ということは、この創建伝説はペルガモン王国の王室周辺によって作られたものという疑いが出てきます。つまりグリューネイアにあやかってペルガモンの起源を由緒あるものにしたということです。もしそうだとすれば、グリューネイアにもともと何か由緒になるようなものがなければなりません。かつてグリューネイアは栄えた町で、なんらかの名声を得ていたのではないでしょうか? そうでないと、ペルガモンの創建伝説にグリューネイアが同等の意味をもって登場する理由が分かりません。以上のように考えて、グリューネイアはかつて何らかの意味で名声を得ていたのではないか、と推測しました。


このことに関連がありそうに思えるのは、ストラボーンが著書「地理誌」に書いた以下の記事です。

現在、この湾の口の幅は約80スタディオンですが、湾の曲がりくねった部分を含めて、港のあるアイオリス人の町ミュリナは60スタディオンの距離にあります。それからアカイア人の港にたどり着きます。そこには12神の祭壇があります。それからグリューネイアの町とアポローンの祭壇と古代の神託所と白い大理石の豪華な神殿に着きます。そこまでの距離は40スタディオンです。


ストラボーン「地理誌」13・3・5より

どうやらグリューネイアには、由緒の古いアポローンの神託所があったようです。この神託所がグリューネイアを有名にしていたのではないか、と思います。パウサニアースもグリューネイアのアポローンの聖林について少し述べています。それはアテーナイの名所の説明をしているところですが、アテーナイのアスクレーピオスの聖域にある奉納品について述べ、奉納品の中にはサウロマタイ人の作った麻布製の胸甲のことを述べています。そして、このような胸甲は他の聖域、特にグリューネイアの聖域にも奉納されている、と続けています。そしてグリューネイアにはアポローンの美しい聖林がある、と言い添えています。

(上:アポローン神)


さらに想像を進めるなら、ホメーロスの「イーリアス」でアポローン神が常にトロイアに味方していたことと、グリューネイアの創建にトロイアの遺民が関わっているらしいことから、このアポローンの神託所をトロイア由来のものと考えることも出来る、とも思いました。もっともアポローン神はギリシアで人気の神様ですからどこにアポローンの神殿や神託所があってもおかしくないのですが。


さて、ヘーロドトスが何も書いていないので、グリューネイアの神話の世界と歴史の世界の間の間隙は非常に大きいです。神話と歴史の間のグリューネイアの様子を何とか知ることは出来ないでしょうか? 例えばホメーロスが活躍した頃のグリューネイアはどんな様子だったのでしょう? 東のプリュギア王国との関りはどうだったのでしょうか? 近くのアイオリス系の都市キューメーでは、キューメーの王女がプリュギア王国の王妃になったことがあります。遊牧民のキンメリア族が馬に乗って小アジアを掠奪して回った時、グリューネイアはどうしていたのでしょうか? リュディア王国のクロイソス王の支配下ではどうだったのでしょうか? そしてリュディアに代わってペルシアの支配下になった時には? いろいろ知りたいことがありますが、これらについて私は答をまったく見つけることが出来ませんでした。


BC 479年、ペルシア戦争ギリシアの勝利に終わったあと、グリューネイアはアテーナイを盟主とするデーロス同盟に参加したようです。その後勃発したペロポネーソス戦争の間(BC 431~404年)、グリューネイアがどうしていたのか、トゥーキュディデースもグリューネイアについて何も書いていないので分かりません。ペロポネソース戦争が終結したのちのことですが、クセノポーンが「アナバシス(7.8.8-17)」で、グリューネイアがエレトリアのゴンギュロスの所有地であったと書いているそうです。このゴンギュロスの父親もゴンギュロスという名前で、ペルシア戦争の頃のエレトリアの政治家で、ペルシアの味方をしていた人物だそうです。ペルシア戦争ギリシア側が勝利したのちゴンギュロスはペルシアに逃亡しました。ペルシア王クセルクセースは彼にペルガモンの領土を与えました。その息子がグリューネイアを支配していたということです。ということは、ペロポネーソス戦争の末期の頃(BC 411年以降)からグリューネイアはペルシアの太守としてのゴンギュロス(息子)の支配下だったのかもしれません。


BC 334年、グリューネイアはアレクサンドロス大王の軍隊によって破壊されています。しかしその後再建されたようで、ローマ帝国の時代、グリューネイアはグリュネイウムの名前で存続しています。短い記述ですが、これでグリューネイアの話を終わります。

グリューネイア(1):起源

グリューネイアはレスボス島の東の大陸側にある町で、レスボス島の諸都市と同じアイオリス系のギリシア人による町でした。

グリューネイアはその名前に異称が多く、グリューニア、グリューネイオン、グリューニオン、グリューノイとも呼ばれました。のちにローマ人からはグリューネイウムとかグリューニウムとか呼ばれています。BC 5世紀の歴史家ヘーロドトスは、大陸(今のトルコ)のエーゲ海沿岸にあるアイオリス人の町を12挙げていますが、その中にグリューネイアがあります。

以上がイオニアの諸市であるが、次にアイオリスの町としては、プリコニスの異名のあるキュメ、レリサイ(ラリッサ)、ネオン・テイコス、テムノス、キラ、ノティオン、アイギロエッサ、ピタネ、アイガイア、ミュリナ、グリュネイアがある。これら11の町は古くからアイオリスの町であった。数が11であるのは、その一つであったスミュルナが、イオニア人によって切り離されてしまったからで、もとは大陸のアイオリス都市も数は12あったのである。これらのアイオリス人が町を築いた土地は、イオニア人の土地よりも豊沃であるが、気候の点ではイオニアほど恵まれていない。


ヘロドトス著「歴史」巻1、149 から

ヘーロドトスの著書のなかでグリューネイアが登場するのはこの1か所だけです。そのような情報の少ない町を取り上げて、自分がどれだけのことが書けるのか試してみました。


グリューネイアの創建伝説については高津春繁「ギリシアローマ神話辞典」に記述がありました。

それによればグリューネイアを建設したのはミューシア王のグリューノスのいう人物でした。ミューシアというのは下の図の領域のようです。時代によってミューシアの領域は変動していたようですので、下の図が示しているのは、だいたいの位置であると考えて下さい。

グリューノスはミューシアの王子で、その父親エウリュピュロスはミューシアの王でした。エウリュピュロスはトロイア戦争トロイア側に参加して、ギリシアの戦士ネオプトレモスに打ち取られました。そこでグリューノスが王位を継いだのですが、近隣の王たちはグリューノスが弱腰だと見取ってミューシアの領土を狙って攻めてきました。そのためにグリューノスの支配地はどんどん小さくなり、やがてはほんのわずかな領地になってしまいました。グリューノスは、ネオプトレモスとアンドロマケーの子ペルガモスが小アジアにやってきたのを知ると、ペルガモスに助けを乞いました。自分の父親を殺した人物の息子に援助を乞うのは奇異に思われるかもしれませんが、その理由についてはあとで述べます。さてグリューノスは、ペルガモスの援助によってミューシアの旧領を回復することが出来ました。そこでグリューノスはグリューネイアとペルガモスという二つの町を建設し、ペルガモスの町をペルガモスに贈りました。これがグリューネイアの起源です。


さて、グリューノスがペルガモスに援助を求めた理由ですが、ペルガモスの母親アンドロマケーがトロイア側の人間だったことが理由のようです。アンドロマケーはかつてトロイアの王子ヘクトールの妻でした。ヘクトールというのはトロイアの第一の勇士で、侵略するギリシア軍を防ぐのに大活躍した人でした。しかしヘクトールギリシアの勇士アキレウスに打ち取られ、そのアキレウストロイアの王子パリスに打ち取られました。最終的にトロイアギリシアによって攻め取られ、ヘクトールの妻だったアンドロマケーは捕虜にされます。捕虜になった女性たちはギリシアの将帥たちに分配されることになっていました。アンドロマケーを得たのはネオプトレモスでした。ネオプトレモスはアキレウスの息子でした。つまり、アンドロマケーは自分の夫を殺した人物の息子の奴隷になったのでした。女性の奴隷は往々にして妾でもありました。さらにネオプトレモスは、ヘクトールとアンドロマケーの間に生れた幼い息子アステュアナクスを殺した人物でもあります。こういう憎んでも余りある男の妾になってアンドロマケーは子供たちを産んだのでした。三番目に生れたのがペルガモスです。やがてネオプトレモスはデルポイでオレステースによって殺されます(この経緯については「ヘルミオネー(7):王女ヘルミオネー」でご紹介しました)。寡婦になったアンドロマケーが故郷に帰りたいと思ったとしてもそれは当然のことだったでしょう。アンドロマケーは三男のペルガモスを連れて小アジアトロイアの近くに移住してきたのでした。


この伝説は、グリューネイアがトロイア戦争終結からそれほど経たない頃にトロイアの遺民によって建てられたことを伝えているように私には思えました。グリューノスはミューシアの王ですし、ペルガモスも母方からトロイアの縁者になるからです。もしそうだとすると、のちにアイオリス人がこの町を奪ったことになりますが、そのような伝説を私はまだ見つけていません。別の可能性としてグリューネイアは、トロイアの遺民の子孫による町であったが、周りにアイオリス人の町が多数建設されたために、やがてその言葉を変えてギリシア語のアイオリス方言を話すようになった、ということも考えられます。

グリューネイア:目次

1:起源

グリューネイアはレスボス島の東の大陸側にある町で、レスボス島の諸都市と同じアイオリス系のギリシア人による町でした。グリューネイアはその名前に異称が多く、グリューニア、グリューネイオン、グリューニオン、グリューノイとも呼ばれました。のちにローマ人からはグリューネイウムとかグリューニウムとか呼ばれています。BC 5世紀の歴史家ヘーロドトスは、大陸(今のトルコ)のエーゲ海沿岸にあるアイオリス人の町を12挙げていますが、その中にグリューネイアがあります。以上がイオニアの諸市であるが・・・・


2:アポローンの神託所

さて、「(1):起源」でご紹介した創建伝説ではグリューネイアとペルガモンの2つの都市が並んで登場していました。このうちペルガモンはのちのヘレニズム時代にペルガモン王国の首都として大いに栄えました。しかし、その前の古典期にはあまり名の知られていない都市でした。ギリシアの文献にペルガモンの名前が初めて登場するのはクセノポーンの「アナバシス(一万人の退却)」で、これはBC 399年よりあとのことです。一方、グリューネイアはBC 450年頃のヘーロドトスの「歴史」に登場しており・・・・