さて、「(1):起源」でご紹介した創建伝説ではグリューネイアとペルガモンの2つの都市が並んで登場していました。このうちペルガモンはのちのヘレニズム時代にペルガモン王国の首都として大いに栄えました。しかし、その前の古典期にはあまり名の知られていない都市でした。ギリシアの文献にペルガモンの名前が初めて登場するのはクセノポーンの「アナバシス(一万人の退却)」で、これはBC 399年よりあとのことです。
一方、グリューネイアはBC 450年頃のヘーロドトスの「歴史」に登場しており、そこには古くからこの町があったことが書かれています。英語版のWikipediaのペルガモンの項によれば、このペルガモンとグリューネイアの創建伝説はBC 3世紀より前には確認されていない、ということです。ということは、この創建伝説はペルガモン王国の王室周辺によって作られたものという疑いが出てきます。つまりグリューネイアにあやかってペルガモンの起源を由緒あるものにしたということです。もしそうだとすれば、グリューネイアにもともと何か由緒になるようなものがなければなりません。かつてグリューネイアは栄えた町で、なんらかの名声を得ていたのではないでしょうか? そうでないと、ペルガモンの創建伝説にグリューネイアが同等の意味をもって登場する理由が分かりません。以上のように考えて、グリューネイアはかつて何らかの意味で名声を得ていたのではないか、と推測しました。
このことに関連がありそうに思えるのは、ストラボーンが著書「地理誌」に書いた以下の記事です。
現在、この湾の口の幅は約80スタディオンですが、湾の曲がりくねった部分を含めて、港のあるアイオリス人の町ミュリナは60スタディオンの距離にあります。それからアカイア人の港にたどり着きます。そこには12神の祭壇があります。それからグリューネイアの町とアポローンの祭壇と古代の神託所と白い大理石の豪華な神殿に着きます。そこまでの距離は40スタディオンです。
どうやらグリューネイアには、由緒の古いアポローンの神託所があったようです。この神託所がグリューネイアを有名にしていたのではないか、と思います。パウサニアースもグリューネイアのアポローンの聖林について少し述べています。それはアテーナイの名所の説明をしているところですが、アテーナイのアスクレーピオスの聖域にある奉納品について述べ、奉納品の中にはサウロマタイ人の作った麻布製の胸甲のことを述べています。そして、このような胸甲は他の聖域、特にグリューネイアの聖域にも奉納されている、と続けています。そしてグリューネイアにはアポローンの美しい聖林がある、と言い添えています。
(上:アポローン神)
さらに想像を進めるなら、ホメーロスの「イーリアス」でアポローン神が常にトロイアに味方していたことと、グリューネイアの創建にトロイアの遺民が関わっているらしいことから、このアポローンの神託所をトロイア由来のものと考えることも出来る、とも思いました。もっともアポローン神はギリシアで人気の神様ですからどこにアポローンの神殿や神託所があってもおかしくないのですが。
さて、ヘーロドトスが何も書いていないので、グリューネイアの神話の世界と歴史の世界の間の間隙は非常に大きいです。神話と歴史の間のグリューネイアの様子を何とか知ることは出来ないでしょうか? 例えばホメーロスが活躍した頃のグリューネイアはどんな様子だったのでしょう? 東のプリュギア王国との関りはどうだったのでしょうか? 近くのアイオリス系の都市キューメーでは、キューメーの王女がプリュギア王国の王妃になったことがあります。遊牧民のキンメリア族が馬に乗って小アジアを掠奪して回った時、グリューネイアはどうしていたのでしょうか? リュディア王国のクロイソス王の支配下ではどうだったのでしょうか? そしてリュディアに代わってペルシアの支配下になった時には? いろいろ知りたいことがありますが、これらについて私は答をまったく見つけることが出来ませんでした。
BC 479年、ペルシア戦争がギリシアの勝利に終わったあと、グリューネイアはアテーナイを盟主とするデーロス同盟に参加したようです。その後勃発したペロポネーソス戦争の間(BC 431~404年)、グリューネイアがどうしていたのか、トゥーキュディデースもグリューネイアについて何も書いていないので分かりません。ペロポネソース戦争が終結したのちのことですが、クセノポーンが「アナバシス(7.8.8-17)」で、グリューネイアがエレトリアのゴンギュロスの所有地であったと書いているそうです。このゴンギュロスの父親もゴンギュロスという名前で、ペルシア戦争の頃のエレトリアの政治家で、ペルシアの味方をしていた人物だそうです。ペルシア戦争でギリシア側が勝利したのちゴンギュロスはペルシアに逃亡しました。ペルシア王クセルクセースは彼にペルガモンの領土を与えました。その息子がグリューネイアを支配していたということです。ということは、ペロポネーソス戦争の末期の頃(BC 411年以降)からグリューネイアはペルシアの太守としてのゴンギュロス(息子)の支配下だったのかもしれません。
BC 334年、グリューネイアはアレクサンドロス大王の軍隊によって破壊されています。しかしその後再建されたようで、ローマ帝国の時代、グリューネイアはグリュネイウムの名前で存続しています。短い記述ですが、これでグリューネイアの話を終わります。