神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

サモトラーケー(2):カドモス

サモトラーケーからトロイアの王家が発祥したことをお話ししましたが、サモトラーケーはギリシア本土のテーバイとも神話上の関係があります。テーバイがフェニキアの王子カドモスによって作られたという伝説は「テーラ(3):エウローペーを探すカドモス」でご紹介しました。


右:エウローペーと、牡牛に化けたゼウス


このカドモスは、神々の王ゼウスがさらっていった妹のエウローペーを探してエーゲ海域を探し回っていたのですが、その途上、サモトラーケーにもやってきたのだと、サモトラーケーでの伝説は伝えます。ゼウスは美しい牡牛に化けてエウローペーに近づき、彼女がたわむれにその牡牛の背に乗ると、やおら沖に向かって走り出し、エウローペーを誘拐したのでした。牡牛に化けたゼウスはエウローペーをクレータ島まで連れて行き、そこで神としての姿を現し、やがてエウローペーはゼウスの子を宿したのでした。このエウローペーを探してカドモスはエーゲ海域を巡ったのですが、結局エウローペーを探し当てることは出来ませんでした。さて、サモトラーケー島に来たカドモスは、ゼウスとエーレクトラーの娘のハルモニアーと出会い、結婚したと言います。この伝説ではハルモニアーは、イーアシオーンとダルダノスの姉か妹ということになります。ハルモニアーというのは英語のハーモニーの語源になっており、調和という意味です。つまり、ハルモニアーは調和の女神です。通常語られている伝説では、カドモスがハルモニアーと結婚するのは、カドモスがテーバイを建設した後のことです。しかし、サモトラーケーでの伝説ではまだカドモスがギリシア本土に向う前にハルモニアーと結婚することになります。また、通常の伝説ではハルモニアーはゼウスとエーレクトラーの娘ではなく、戦いの神アレースと愛の女神アプロディーテーの娘であると語られます。


それはともかくカドモスとハルモニアーの結婚は宗教的に何か特別な意義があったらしく、伝説では天上の神々が地上に降りて、この結婚式に参列したのだといいます。しかし、それがなぜなのか判然としません。サモトラーケーにおいてさらに謎めいているのは、サモトラーケーの密儀という秘密の信仰、秘密の宗教儀式が古代に存在し、そこで崇拝されている神々の1柱がカドミロスという名前であると言われており、その名前は小さなカドモスという意味を持っていることです。このこととカドモスとハルモニアーの結婚のことは何か関係があるのかもしれません。そしてカドモスとハルモニアーの結婚の重大な意味はこの密儀の中で明らかにされていたのかもしれません。サモトラーケーの密儀についてはあとで述べたいと思います。


また、カドモスがフェニキアの王子であると語られていることも気になります。フェニキアというのは今のレバノンあたりを指しますが、古代のフェニキア人は航海が得意で、地中海のさまざまな場所に植民市を建設していました。サモトラーケー島の西に浮ぶタソス島がかつてフェニキア人の植民市であったことをヘーロドトスが伝えています。なので、サモトラーケー島にかつてフェニキア人がやってきたとしても不思議ではありません。するとギリシア人がやってくる前のサモトラーケーには、ペラスゴイ人やカーリア人のほかにフェニキア人もいたのでしょうか? いろいろ想像が膨らみます。トゥーキュディデースは、ギリシア人到来以前のエーゲ海の島々はフェニキア人とカーリア人のものであったと述べています。

当時島嶼にいた住民は殆どカーリア人ないしはポイニキア人(=フェニキア人)であり、かれらもまたさかんに海賊行為を働いていた。これを示す証拠がある。今次大戦(=ペロポネーソス戦争)中にデーロス島がアテーナイ人の手で清められ、島で死んだ人間の墓地がことごとく取り除けられたとき判明したところでは、その半数以上がカーリア人の墓であった。これは遺体と共に埋められていた武器や、今日なおカーリア人がおこなっている埋葬形式から判った。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1、8 から


さて、神話の時代のサモトラーケーについては以上が伝えられていますが、これ以上のことは伝わっていないようです。ですので、ダルダノスがサモトラーケーからトロイアに移住したあと、そしてカドモスがテーバイに行ってしまったあとに、サモトラーケーで何が起こったのかが分かりません。ぼんやり分かっていることは、最初はペラスゴイ人とカーリア人が島に住んでいて、つぎに北からトラーキア人がやってきたということです。その後のことについてはストラボーンが「ある地理学者」の説を紹介しています。それによれば、不作が続いたためにトラーキア人が島を放棄したあと、ミュカレーにいたサモス人が島にやってきてサモトラーケーという名前を島につけた、ということです。なお、ミュカレーというのはサモス島のすぐ東の大陸側の岬の名前です。英語版のWikipediaのサモトラーケーの項によれば、ギリシア人がサモトラーケーにやってきたのはBC 8世紀のことだということです。しかし、パウサニアースは別の説を記しています(「ギリシア案内記」7.4.2~3)。それによれば、サモスの近くの大陸側の都市エペソスが、サモスはカーリア人と一緒になって自分たちイオーニア人たちに対して陰謀を企んだと非難してサモスを攻め、サモス人をサモス島から追放してしまいました。その際、一部のサモス人がサモトラーケー島に移り住んだといいます。大部分の人々はサモス島の近くの大陸側のアナイアに移り住み、10年後にはサモス島をエペソス人から奪還したということです。パウサニアースは、この時のエペソス王がアンドロクロスであったと述べており、さらにこのアンドロクロスがエペソスを建設したことを記していますので、もしそうだとするとこれはBC 10世紀頃の話となります。私としては、ストラボーンの紹介する説のほうが年代に矛盾しないと思います。