神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

リンドス(4):アテーナー・リンディア(リンドスのアテーナー神殿)

ダナオスと50人の娘たちがリンドスに女神アテーナーの神殿を建立したのは、エジプトから無事に脱出することが出来たことを感謝するためでした。とはいえ、伝説によれば彼らは結局はエジプトから追っかけてきたアイギュプトスの50人の息子たちに捕まってしまったのですから、神に感謝しても無駄だったわけです。「神意は、はかり難し」ということなのでしょうか?

(上:アテーナー・リンディア)


アテーナー・リンディアにまつわる別の伝説では、その創建はダナオスと50人の娘たちではなく、もっと昔のヘーリアダイになっています。女神アテーナーが父ゼウスの頭から誕生した際に太陽の神ヘーリオスは、息子たち(ヘーリアダイ)にその誕生を祝ってアテーナーの祭壇を建て、犠牲を捧げるように命じました。その時ヘーリアダイは急ぎのあまり火を忘れたために、焼かない犠牲を女神アテーナーに捧げました。しかし女神はこの犠牲を嘉(よみ)したといいます。また、父ゼウスもそれを嘉し、リンドスにサフラン色の雲を送り、金色の雨を降らせたということです。この時の祭壇がアテーナー・リンディアの起源だということです。


現在リンドスにあるアテーナー神殿の遺跡は、ロドス島がイタリア領だった頃、イタリアによって復元されたそうです。今回調べて私は始めて知ったのですが、ロドス島が現在のギリシア領になったのは第二次大戦後のことであり、第一次大戦後から第二次大戦中まではイタリア領だったということです。ところで、この復元作業はあまり良くないものだったようです。

現代の基準からするとこの復元は出土したものに関する十分な検証もせずに行われており、損害を与える結果となっている。近年ギリシャ文化省の監督の下で国際的な考古学チームが正しい復元と保護のために働いている。


日本語版ウィキペディアの「リンドス」の項より


この神殿はBC 342年に焼失し、その後BC 4世紀後半に再建されたということですので、復元されたアテーナー神殿はこのBC 4世紀の神殿を元にしたものだと思います。ダナオスと50人の娘たちが建てたと伝えられる神殿は、もちろんこれよりずっと古いもので、木造のもっと小規模な神殿だったことでしょう。

(上:アテーナー・リンディア)


周藤芳幸氏の「物語 古代ギリシア人の歴史」の中にはロドス島を舞台にした短い歴史物語が収録されていますが、そこにアテーナー・リンディアの奉納物が登場します。

それらは、テーベの建設者カドモスが奉納した釜や、クレータ島のミーノース王の杯、英雄ヘーラクレースの楯や、トロイア戦争の原因になった美女ヘレネーの首飾り、です。これらについて物語の作者の周藤氏は「この奉納品については、ヘレニズム時代に編纂されたリンドスのティマキダスによる神殿年代記を参照した」と書かれています。ですので、上に挙げた人々がかつてアテーナー・リンディアを訪れたという伝説があったことが分かります。カドモスとヘーラクレースについてはより詳しい状況を推測することが出来ます。


カドモスについては「テーラ(3):エウローペーを探すカドモス」に書きました。カドモスはフェニキアの王子でしたが、自分の妹のエウローペー(ヨーロッパという地名の由来になった女性)が神々の王ゼウスによってクレータ島へ拉致されたのでした(ゼウスにはよくこのような話があります。ゼウスは若い女性に目がないのです)。カドモスの父親アゲーノールは娘の失踪に激怒して、息子たちに世界の隅々まで探してエウローペーを見つけるように、と命じました。息子の一人カドモスは、フェニキアから船出したところあいにく難破し、ロドス島のリンドスに漂着したのでした。カドモスはアテーナー・リンディアに参拝して妹が見つかりますようにと祈願したに違いないのですが、妹を拉致したのがアテーナーの父親であるゼウスですので、カドモスの祈願に応えるわけにはいかなかったことでしょう。カドモスとその部下たちは、リンドスを出航して次はテーラ島に上陸しています。

(上:牡牛に化けたゼウスに拉致されるエウローペー)



(上:前門の階段)



(上:階段を上から見たところ)


ヘーラクレースの楯の由来については、それに関係のありそうな話を高津春繁著の「ギリシアローマ神話辞典」の「ヘーラクレース」の項の中の「IV. 十二功業」の中の「(11) ヘスペリスの園の黄金の林檎」の中に見つけました。

園のあり場所を知った彼(=ヘーラクレース)は、リビアを通って進んだ。ここで彼はアンタイオスを殺し、エジプトでは異邦人を犠牲に供していたブーシーリス王を討った。つぎにアジアを通り、リンドス人の港テルミュドライに寄った。そこで一人の牛追の一方の牛を車からはずして犠牲にし、飲み食いした。牛追は英雄に抗すべくもないので、ある山の上に立って呪った。ヘーラクレースに犠牲を捧げる時に、呪いとともにこれを行なうのはこの故事による。


ここではヘーラクレースの楯の話は登場しませんが、おそらく上の伝説に関係した由来があったものと思います。

(上:リンドスのアクロポリスからの眺め)

リンドス(3):ダナオスの子孫(ダナオイ)

ダナオスと50人の娘たちは、ロドス島にはちょっと立ち寄っただけで、すぐに目的地のアルゴスに行ってしまいますので、リンドスとはあまり関係がないのですが、その後の物語はギリシア神話上重要な位置を占めていますので、簡単にご紹介します。


ダナオスと50人の娘たちは、無事アルゴスにたどり着き、アルゴスの王に受け容れられてもらいます。しかし、アイギュプトスの50人の息子たちも船を作って、エジプトからアルゴスまで追いかけてきたのでした。そして、彼らの圧力に負けてここに50組のカップルが誕生します。しかしダナオスは娘たちに短剣を渡し、初夜に自分の夫となった人を殺すように言いつけました。娘たちは、初夜の晩に眠っている夫を殺しました。しかし、娘の中のただひとりヒュペルムネーストラーだけは、自分に割り当てられた夫のリュンケウスを殺しませんでした。それはリュンケウスの人柄がよかったため殺せなかった、と言われています。しかし、そのことでヒュペルムネーストラーは父親のダナオスに捕えられます。ダナオスは娘をアルゴス人の法廷に訴えました。しかし、愛と美の女神アプロディーテーが現われて二人が結婚することが神意であることを告げたので、アルゴス人の法廷はヒュペルムネーストラーを許しました。


というのもヒュペルムネーストラーとリュンケウスの間に生まれた息子アバースの子孫としてギリシア神話で有名なペルセウスヘーラクレースや他の英雄たちが生れることになっていたのでした。ペルセウスについて言えば、ヒュペルムネーストラーとリュンケウスの子アバースの子アクリシオスの娘ダナエーがゼウスに愛されて生まれたのがペルセウスです。(星座に興味のある人でしたら、ペルセウスにまつわる星座がいくつもあることをご存じだと思います。ペルセウス座アンドロメダ座ペガスス座くじら座ケフェウス座カシオペア座がそうです。)

(上:海の怪物からアンドロメダを助けるペルセウス


 また、ペルセウスの子エーレクトリュオーンの娘アルクメネーがゼウスに愛されて生まれたのがヘーラクレースです。あとでお話しすることになるロドス島の伝説的な領主トレーポレモスはヘーラクレースの息子ですので、やはりダナオスの子孫にあたります。トロイア戦争を扱ったホメーロス叙事詩イーリアス」では、ギリシア勢のことを所々でダナオイと呼んでいます。ダナオイとは、ダナオスの子孫という意味です。例えば、次のような箇所です。

いで告げたまえ、オリュンポスに宮しき居ます詩神(ムーサイ)たちよ、
そも御身らは神におわし、その場に立ち合い、万事を心得たもうに、
我らはただ評判に聞きつたえるのみ、何事をもさらに弁えないので、
ダナオイ勢を率いる大将、またその頭梁方は如何なる人々であったかも、
こう大勢では、到底私も語り得ず、その名とて述べおおせぬであろう、
たとえ またわたしらに舌が十枚、口が十あったにしても、


ホメーロスイーリアス」第2書 呉茂一訳 より

トロイア戦争に登場するギリシア勢の全員がダナオスの子孫であるというわけではないのですが、そこは厳密には考えずに全体をダナオイと呼んだものでしょう。ダナオイというのは一種の民族名あるいは種族名だったようです。


さて、話をダナオスの娘たちに戻します。ヒュペルムネーストラー以外の娘たちは、殺した男たちの葬礼を行い、その首を近くのレルネーという沼地に埋めました。首をわざわざ切り取って別の場所に埋めるというのは不気味な話ですが、どうもこの伝説の背後には、アルゴスに水をもたらすためにレルネーの泉に人身御供を行ったという、太古の儀礼が存在していたそうです。


さて、大神ゼウスはアテーナー女神とヘルメース神に命じて、ダナオスの娘たちを殺人の穢れを清めさせました。これは娘たちにとってハッピーエンドになる結末ですが、ハッピーエンドにならない異伝も存在していて、その物語では娘たちは死後、冥界で、穴の開いている甕で水を汲むことを命ぜられていて、永遠に水を汲む動作を行っている、ということです。娘たちは父親の命に従っただけであったのに、こんな罰を蒙るとは、かわいそうなことです。

(上、「ダナオスの娘たち」ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス作)


このイメージは、古代ギリシア人にとっては、シーシュポスの労働と並ぶ、永遠に続く劫罰のイメージでした。しかし、見方を変えれば、ダナオスの娘たちが水を汲むというイメージは、もともとは豊かな水を願う儀礼を指したものなのかもしれません。

リンドス(2):ヘーリアダイとダナオス

さて、テルキーネスたちには妹がいて、名をヘーリアーといいます。このヘーリアーという名前は、太陽(=ヘーリオス)の女性形です。そう考えるとヘーリアーとは、日本神話のアマテラスみたいな神格なのかもしれません。ただ残念なことにヘーリアーについてはあまり話が伝わっていません。ヘーリアーはのちに海中に身を投じて、レウコテアーという海の女神になった、という伝えがあります。私は唐突に太陽の女性形の名前が登場することを、不思議に思います。そこには忘れ去られた古い神話があったのではないか、と想像します。海と太陽の女神とはどのような関係があったのでしょうか。(おそらくは単なる偶然なのでしょうが)私は日本神話におけるアマテラスのアマという言葉が「天」を意味すると同時に「海」をも意味する言葉であったことを、思い出さずにはおられません。 


ヘーリアーは海の神ポセイドーンとの間に子を儲けました。娘が1人と息子が6人でした。娘の名前はロドスといい、この娘の名にちなんでこの島はロドス島と名付けられました。


いやいやそうではなくて、ポセイドーンと(ポセイドーンの正妃)アンピトリテーの娘ロデーにちなんでロドスと名付けられた、という人々もいます。このあたりははっきりしません。


このロドス、またはロデーが太陽神ヘーリオスと結婚してロドス島で生まれた子供たちを総称してヘーリアダイと言います。

(太陽神ヘーリオス


ヘーリアダイは7人の息子たちでした。彼らは太陽神の息子たちということで、優れた天文の知識を持っていました。なかでも長男のテナゲースは一番優れた知識を持っていました。それを4人の弟たちがねたんでテナゲースを殺してしまいました。そして彼らはロドス島から逃亡しました。弟のなかで殺人に加わらなかった者が2人いて、オキモスとケルカポスといいます。兄のオキモスがロドス島の王となりました。のちにケルカポスはオキモスも娘キューディッペーと結婚し、オキモスからロドス島の王位を引き継ぎました。ケルカポスとキューディッペーの間には、リンドス、イアーリュソス、カメイロスの3人の息子が生れました。この3人はそれぞれ町を建設して、その町に自分の名を付けました。ということでリンドスの創建者は、ケルカポスの子であり、太陽神ヘーリオスの孫であるリンドスということになります。


さて、その後、リンドスの町にどのようなことが起きたでしょうか? 伝説によれば、エジプトからダナオスとダナオスの50人の娘たちがリンドスにやってきたことになっています。


ダナオスはエジプトで生まれていますが、その祖先はギリシアペロポネソス半島アルゴスの町の出身だといいます。アルゴス地方を流れるイーナコス河の神イーナコスの娘イーオーがその祖先でした。イーオーは神々の王ゼウスに愛されましたが、そのためにゼウスのお妃のヘーラーに迫害されました。そのためイーオーは牛の姿で世界中をさまようことを余儀なくされ、最後にエジプトにやってきた時に人間の姿に戻り、そこでゼウスの子エパポスを産みました。エパポスは成人するとエジプトの王になり、娘リビュエーを得ました。彼女の名前からリビアという土地の名前が出来ました。このリピュエーが海の神ポセイドーンと結婚して、アゲーノールとベーロスが生まれます。ベーロスがエジプト王になります。ベーロスにはアイギュプトスとダナオスの2人の息子が生まれました。このアイギュプトスというのはエジプトのことです。エジプトを古代のギリシア語でアイギュプトスと言うのです。神話ではアイギュプトスの名にちなんでその土地をアイギュプトス(エジプト)と呼ぶようになったといいます。


このアイギュプトスには50人の息子がいました。弟のダナオスには50人の娘がいました。50人の息子たちが50人の娘たちにそれぞれ結婚を申し込んだところ、娘たちはそれを拒絶して、ダナオスを中心にしてエジプトから出て行き、祖先の故郷のアルゴスに向ったのでした。当時はまだ人類は船というものを知らなったのですが、女神アテーナーがダナオスに船の作り方を教えたということです。


ダナオスと50人の娘たちが船でエジプトからアルゴスに向かう途中で、ロドス島に立ち寄り、アテーナー・リンディアの神殿を建設したということになっています。

リンドスのアテナ神殿が、アイギュプトスの息子たちを逃れてこの地に立ち寄ったダナオスの娘たちによって建立されたという伝承があった・・・


ヘロドトス著「歴史」巻2、182 から

リンドス(1):はじめに


ロドス島はエーゲ海の東側の南に浮ぶ島です。面積でいうと日本の沖縄本島に近い大きさですが、沖縄本島よりずんぐりとした形です。古代ここにはリンドス、イアーリュソス、カメイロスの3つの都市がありました。どれもドーリス系の都市です。

これら3つの都市についてはすでにホメーロスも「イーリアス」で歌っています。

 またトレーポレモスはヘーラクレースの子で、性(さが)勇ましく丈高く、
ロドス島より九艘の船を率いて来た、この気象のすぐれたロドス人らは
三つの部族にわかたれて、ロドスの島一帯にならび住まうもの、
リンドスとイアーリュソスと、白亜に富めるカメイロスと(の三邑)に。


ホメーロスイーリアス」第2書 呉茂一訳 より

今回は、その中でリンドスを取り上げます。


古代のリンドスの遺跡として、女神アテーナーの神殿があります。その神殿はアテーナー・リンディアと呼ばれていました。アテーナー・リンディアはリンドスの町近くの小高い山の上にありますが、外から見ても中世に建てられた城壁にさえぎられてアテーナー・リンディアは見えません。アテーナー・リンディアは、城壁の中にあります。


神話の世界ではこの町の創建者は町と同じ名前のリンドスという人物で、太陽神ヘーリオスの孫にあたり、兄弟にはイアーリュソス、カメイロスがいて、それぞれイアーリュソス市、カメイロス市の創建者となったということです。太陽神ヘーリオス古代ギリシアではそれほど人気のない神なのですが、例外的にロドス島では主神として崇められていました。この太陽神を主神とするということが、私にはエジプトの影響ではないか、と思えます。古代エジプトの宗教では太陽崇拝が盛んだったからです。これを支持してくれそうな伝説として、ダナオスの伝説がロドス島に伝わっています。ダナオスはエジプト人だったのですが、兄アイギュプトスと争った結果エジプトを出て、ロドス島にやってきて、アテーナー・リンディアの神殿をリンドスに建立した、と伝説は述べています。エジプトからロドス島への人の流れを暗示するような伝説です。


最初に、ロドス島全体に関係する神話からご紹介します。神話の世界でロドス島に最初に登場するのはテルキーネスという種族です。この種族は人間ではありません。その姿は半人半魚とも半人半蛇とも言われています。彼らはとても古い種族で、優れた鍛冶屋であり、クロノスの鎌を作ったのは彼らだと伝えられています。


クロノスというのは神々の王ゼウスの父親で、ゼウスが天下を取る前は神々の王でした。古代ギリシアの神話では神々の王権伝授は平穏には進まず、最初の王ウーラノス(=天)が息子のクロノスに敗れ、次に王となったクロノスは息子のゼウスに敗れて、地中奥深くの世界タルタロスに閉じ込められているというふうになっています。このクロノスの鎌を作ったのがテルキーネスたちということなので、彼らはゼウスが生れるより前から存在していたことになります。


また、テルキーネスたちは、海を支配するポセイドーンがまだ幼児だったころ、その母親のレアーから命ぜられて、カペイラという海に住む女神と一緒にポセイドーンを養育したといいます。そこからもテルキーネスたちの古さが分かります。つまりテルキーネスたちはゼウスによる神界の秩序が確立される以前の世界の種族なのでした。ポセイドーンの持ち物である三叉の鉾を作ったのもテルキーネスたちでした。神々の像を始めて作ったのも彼らでした。彼らはクレータ島からキュプロス島を経てロドス島にやってきたといいます。ロドス島は彼らにちなんでテルキーニスとも呼ばれました。やがて彼らは、(旧約聖書のノアの洪水の話に似た)デウカリオーンの洪水として知られる洪水がロドス島を襲うことを予見し、ロドス島を捨ててさまざまな地方に逃げていったのでした。(以上、高津春繁著「ギリシアローマ神話辞典」から情報を得ました。)



(三叉の鉾を持つポセイドーン)


幼いポセイドーンを養育したり、ポセイドーンに三叉の鉾を作ってやったりしたことから、私はテルキーネスがギリシア神話の中で肯定的な評価を得ているのかと思ったのですが、実際にはそうではなく彼らは災いをもたらす者と考えられていたそうです。そしてアポローンが矢で射て殺したとも、ゼウスが雷霆で撃って殺したとも伝えられています。おそらくゼウスの支配権が確立してからは、彼らに居場所がなかったのでしょう。古代のギリシア人はテルキーネスに善悪両方の存在を見ていたようです。

リンドス:目次

1:はじめに

ロドス島はエーゲ海の東側の南に浮ぶ島です。面積でいうと日本の沖縄本島に近い大きさですが、沖縄本島よりずんぐりとした形です。古代ここにはリンドス、イアーリュソス、カメイロスの3つの都市がありました。どれもドーリス系の都市です。これら3つの都市についてはすでにホメーロスも「イーリアス」で歌っています。またトレーポレモスはヘーラクレースの子で、性(さが)勇ましく丈高く、ロドス島より九艘の船を率いて来た、この気象のすぐれたロドス人らは三つの部族に・・・・


2:ヘーリアダイとダナオス

さて、テルキーネスたちには妹がいて、名をヘーリアーといいます。このヘーリアーという名前は、太陽(=ヘーリオス)の女性形です。そう考えるとヘーリアーとは、日本神話のアマテラスみたいな神格なのかもしれません。ただ残念なことにヘーリアーについてはあまり話が伝わっていません。ヘーリアーはのちに海中に身を投じて、レウコテアーという海の女神になった、という伝えがあります。私は唐突に太陽の女性形の名前が登場することを、不思議に思います。・・・・


3:ダナオスの子孫(ダナオイ)

ダナオスと50人の娘たちは、ロドス島にはちょっと立ち寄っただけで、すぐに目的地のアルゴスに行ってしまいますので、リンドスとはあまり関係がないのですが、その後の物語はギリシア神話上重要な位置を占めていますので、簡単にご紹介します。ダナオスと50人の娘たちは、無事アルゴスにたどり着き、アルゴスの王に受け容れられてもらいます。しかし、アイギュプトスの50人の息子たちも船を作って、エジプトからアルゴスまで追いかけてきたのでした。そして、彼らの圧力に・・・・


4:アテーナー・リンディア(リンドスのアテーナー神殿)

ダナオスと50人の娘たちがリンドスに女神アテーナーの神殿を建立したのは、エジプトから無事に脱出することが出来たことを感謝するためでした。とはいえ、伝説によれば彼らは結局はエジプトから追っかけてきたアイギュプトスの50人の息子たちに捕まってしまったのですから、神に感謝しても無駄だったわけです。「神意は、はかり難し」ということなのでしょうか? アテーナー・リンディアにまつわる別の伝説では、その創建はダナオスと50人の娘たちではなく、もっと昔の・・・・


5:トレーポレモス

さてトロイア戦争の時に、リンドスを含むロドス島はギリシア側に立って兵を出しました。それを率いるのはヘーラクレースの子といわれるトレーポレモスでした。 またトレーポレモスはヘーラクレースの子で、性(さが)勇ましく丈高く、ロドス島より九艘の船を率いて来た、この気象のすぐれたロドス人らは三つの部族にわかたれて、ロドスの島一帯にならび住まうもの、リンドスとイアーリュソスと、白亜に富めるカメイロスと(の三邑)に。ホメーロスイーリアス」第2書 呉茂一訳 より・・・・


6:ドーリス人の到来

トレーポレモス亡きあと、ロドス島はその妻ポリュクソーによって支配されました。彼女は戦死した夫の葬礼競技を催しました。その後、夫が死んだのもトロイア戦争が原因である、そしてこの戦争の原因はヘレネーであると考え、ヘレネーを殺害する機会を伺っていました。後年、ヘレネーがスパルタを追い出されてポリュクソーを頼って来た時に、ポリュクソーはヘレネーを表向きは歓迎しましたが、ひそかに侍女たちにエリーニュス(復讐の女神たち)の格好をさせて・・・・


7:クレオブーロス

リンドスにドーリス人がやってきたのがBC 10世紀頃とされています。それから400年間は、例によって伝承がほとんどありません(私はそこが知りたいのですが)。BC 6世紀より前のある時点に、リンドスは近隣のドーリス系都市と同盟を結びました。これがヘクサポリス(6都市)という同盟で、その加盟都市は、まずロドス島の3都市、リンドス、イアーリュソス、カメイロスであり、そのほかコース島のコースと、あとは大陸側の都市であるハリカルナッソスとクニドスです。・・・・


8:アマシス王の奉納物

おそらくクレオブーロスが亡くなったあとのことと思いますが、エジプトのアマシス王(在位:BC570~526)がギリシア各地の神殿に高価な奉納をしたことがありました。この時、リンドスのアテーナー・リンディア(神殿)は石の神像二基と麻製の鎧を受け取りました。アマシスはギリシア各地へもさまざまな奉納品を献納したが、キュレネへは黄金を被せたアテナ像と自分の肖像画を、リンドスのアテナへは石の神像二基と見事な麻製の鎧を、サモスのヘラへは自分の姿を写した木像二基を奉納した。・・・・


9:ロドス市の建設

ペルシア戦争後、ロドスの町々(リンドス、イアーリュソス、カメイロス)はデーロス同盟に参加しました。そのため、BC 431年から始まるペロポネーソス戦争では、これらの町々はアテーナイ側で戦いました。ペロポネーソス戦争というのは、ギリシア諸都市がアテーナイ側とスパルタ側に分かれて戦った戦争です。BC 415年にアテーナイはシケリア(シシリー島)遠征を行ないましたが、その際にロドスの軍勢が参加しています。とはいえ、ここまではロドス島は戦場からは遠く・・・・


10:カレース

カレースはBC 280年頃活躍したリンドス出身の彫刻家でした。彼の一番大きな仕事はロドス市の港に太陽神ヘーリオスの巨像を建設したことです。その建設は、マケドニア王デーメートリオスによるロドス市包囲に対してのロドス市の勝利を記念として企画されました。BC 305年、ロドス市はマケドニア王デーメートリオス1世の軍隊によって包囲攻撃を受けていました。デーメートリオスはロドス市に対して、エジプト王プトレマイオス1世との同盟を破棄するように要求し、ロドス市がその要求を・・・・

クニドス(9):ソーストラトス

アレクサンドロス大王が急死したのち、彼の将軍だったプトレマイオス(1世)はエジプトを自分の勢力下に置くことに成功し、エジプト王に即位しました。彼の治世に首都アレクサンドリアの沖に高さ134mほどの、古代としては巨大な灯台が建設されました。なぜ高層の灯台が必要だったかと言えば、アレクサンドリア付近はナイル河のデルタ地帯であり、海上の船舶が遠くから港の位置を知るために地形を利用しようにも、山というものがなかったからです。

かつて、この灯台には以下のような碑文が刻まれていたそうです。

エジプトには島嶼のような山の上の見張り台がなく、
船が停泊する防波堤は低いところにある。
それゆえ、天空を切り裂いてまっすぐ高々と屹立することで、
この塔ははるか遠くからも望むことができる。


「都市アレクサンドリアと初期ヘレニズム時代の東地中海世界:セーマ・大灯台・図書館」 周藤芳幸著 より

実は、この引用の直前にクニドス人の名前が登場します。

ギリシア人の救済神として、このファロス(=アレクサンドリア港の沖合にある島)の見張りを、
おおプロテウス神(=海の神)よ、クニドスのデクシファネスの子ストラトスが奉納した。


同上

このクニドス人ソーストラトスというのは、どんな人物なのでしょうか?  日本語のウィキペディアの「クニドスのソストラトス」の項によれば、ソーストラトスは、建築家でありアレクサンドリアの大灯台を設計した人物、と書かれています。しかし、「都市アレクサンドリアと初期ヘレニズム時代の東地中海世界:セーマ・大灯台・図書館」 周藤芳幸著(名古屋大学教授)によれば、彼は単なる建築家ではなく、プトレマイオス朝エジプトを含む東地中海世界に影響力を持つ政治家だったようです。たとえば、アポローンの神託所で有名なデルポイから出土した碑文には、デルポイがソーストラトスとその子孫に対して様々な特権を与えたことを述べているそうです。また、同じくアポローン神の聖地デーロス島から出土した碑文は、キュレーネーやカウノスの市民がデーロス島にソーストラトスの彫像を建立したことを伝えているそうです。ということは、これら2つの都市はソーストラトスから何らかの恩恵を受けたということです。また、デーロス島を拠点とする島嶼の同盟がソーストラトスに対して顕彰を決議したことを示す碑文も出土しています。また、アテネから出土の碑文には、BC 286年、アテーナイがマケドニア王デーメートリオスに対して反乱を起こし、そのためにデーメートリオスの軍隊に包囲された時、エジプト王プトレマイオス1世はアテーナイ救出のためにソーストラトスを派遣し、デーメートリオスと和平について協議させたことが出ているということです。


(右:プトレマイオス1世)



(左:デーメートリオス1世)

これらの一連の史料は、クニドスのソストラトスプトレマイオス一世に重用されたエジプトの宮廷人であったばかりではなく、他の(アレクサンドロスの)後継者からも一目置かれ、当時の東地中海世界の情勢に広く影響力を及ぼすことのできた国際的な有力者であったことを示している。


同上

クニドス人ソーストラトスがエジプトの宮廷に関与していたことに関連して、BC 6世紀のアマシス王の時代にクニドスの商人たちはすでにエジプトに拠点を置いたことを私は思い出しました。クニドスは昔からエジプトとは関係が深かったわけです。

建築家としてであれ奉納者としてであれ、彼がアレクサンドリアの大灯台の建設に貢献したのも、東地中海を舞台とする国際政治のフィクサーとして、視覚的にも機能的にもエジプトを東地中海と強固に結びつけるモニュメントに強い関心を抱いていたからではないだろうか。実際、アレクサンドリアの大灯台によって利益を得たのは、プトレマイオス朝の経済的繁栄を享受することのできた東地中海の海上交易に従事する商人たちだったと推測されるのである。


同上

私は、クニドスを含むエーゲ海東岸のギリシア人都市を拠点とする「海上交易に従事する商人たち」を組織化した実力者としてのソーストラトスの姿を想像します。そしてエジプトの首都アレクサンドリアのランドマークである大灯台に、支配者エジプト王の名前でなく自分の名前を刻ませることの出来たソーストラトスの得意の様子を想像します。


私のクニドスについての話は、これで終わります。

クニドス(8):クニドス派の医学

クニドスから北に向って海を越えて20kmぐらいのところにあるコース島は、医聖と呼ばれたヒポクラテースの出身地であり、古代ギリシアの医療の中心地として有名でした。ここでの医療のやり方はコース派と呼ばれていました。この学派とは別のクニドス派と呼ばれる医療の学派がクニドスにありました。


今回、クニドスを取り上げるにあたってクニドス派についても書こうと思って調べたのですが、コース派の対抗者としてクニドス派の名前と簡単な説明だけが出て来るのが大部分で、クニドス派を正面に論じた文書がなかなか見つかりませんでした。その際に見つけたものの中で「植物療法と予防医学 (古代からゲーテへ)」 大浜宏文著(生化学・医療史)はクニドス派について比較的多く説明をされていましたので、そこから引用します。

ギリシア医療の基本は人間学環境学、栄養学をも含めた、広範囲にわたる)である。したがって、健康が人間の本来の姿であるからには、人間を考える前提として健康が重要な位置を占めることになる。病気は人間を損なう障害である。ギリシア人は健康の本質をきわめて分析的な思考によって理解しようとし、そのためにしばしば実験科学的な手法を用いている。生理現象の基本に平衡という概念を据え、基本要素の平衡関係がさまざまな現象を生み出すと考えた。ギリシア医療を液体病理論をとる立場と固体(臓器)病理論の立場に分けて考える場合が多いが、病巣の場を体液にとるか臓器にとるかの違いの重要性もさることながら、両理論に共通するギリシア医療の特徴を明らかにすることも重要であろうと考える。人間の「健康」という基本的な問題を考察するとき、人間を全人的に見て、環境・栄養などの影響を重視しつつ身体全体のつり合いを考えるコス派ヒポクラテスに代表される)は、体液理論を基本的な考え方として主張する立場から体液、脈管、混和、平衡を重視することになる。一方、体液理論に反発するクニドス派(ヘロディコス、エウリポンなど)の固体(臓器)病理論を標榜する立場からは、病気を臓器における異常と見る考え方に立ち、病因となる有害物質が局所に集積されて障害を引き起こし、その障害の質と程度は有害物質の種類に依存すると考えた。有害物質は体液によって局所に運ばれると考えられるから、クニドス派にとっても体液は見逃せない重要な因子であるが、それ以上に臓器における病巣の判断に視点が置かれていた。両者の違いは病気そのものの診断の仕方に顕著に現れている。すでにこの時点においてコス派は「健康」を医学思想のなかで優先させるが、クニドス派は病に冒された局所の治療を前提とする考え方を重視している。ここに現代に通じる二つの対立する医学思想の萌芽を見ることができる。コス派は病気を細分化することなく、ヒト全体の状態の変化として捉えようとしたが、クニドス派は病気の分類とその判定に力を入れる。コス派の基本は人体のピュシス(自然)を重要な能力と考え、ピュシスのもたらす自然治癒力が重要な働きをすると考えたが、クニドス派の基本は病気の分類を重視し、そのカテゴリーの規範にしたがって診断・治療する考え方を優先させた。


「植物療法と予防医学 (古代からゲーテへ)」 大浜宏文著(生化学・医療史)より

この記述によればクニドス派は「病気を臓器における異常と見る考え方に立ち、病因となる有害物質が局所に集積されて障害を引き起こし、その障害の質と程度は有害物質の種類に依存すると考えた」ということですので、現代の医学の立場から見ても正統的な考え方に見えます。対するコース派は「人間を全人的に見て、環境・栄養などの影響を重視しつつ身体全体のつり合いを考える」ということで(こちらも現代科学に対応するものがあることにはあるものの)分析的でない点がひっかかります。しかしそうであるからこそ、ヒポクラテスは現代医学のアンチテーゼとしてよく取り上げられるようです。それに対してクニドス派は現代人から見てもまとも過ぎるために、取り上げられることが少ないようです。


クニドス派がいつ頃から存在していたかについてですが、英語版のWikipediaの「クニドス」の項では、

ヘレニズム時代、クニドスは医学の学派を誇っていました。しかしこの学派が古典期の始めから存在していたという学説は根拠のない推定です。

とあって、古典期(BC 5~4世紀)には存在したかどうか分からないとしています。一方、BC 7世紀からクニドス派は存在していたとする本もありました。私にはどちらが正しいのか分かりません。以前、ご紹介したクテーシアース(ペルシア王アルタクセルクセース2世の侍医)をクニドス派の医者のひとりに数える本もありました。さて、コース派の医者たちもクニドス派の医者たちもアスクレーピアダイ、つまりアスクレーピオスの子孫を名乗っていました。アスクレーピオスは神話の世界に登場する医療の神です。アスクレーピオスを祭った神殿は、病気平癒を願う人々が参詣し、信仰を集めていました。その神殿の神官の中から、科学的な思考をする、医者と呼んでもよい人々が生れたのでした。



(右:アスクレーピオス)


私は、ヘレニズム時代(BC 3~1世紀)のクニドスが魅力的な町であったと想像します。当時この町は、クニドスのアプローディテーの像が有名であり、そしてクニドス派の医療でも有名だったのです。各地から多くの旅人がクニドスを訪れたと思います。そして旅人の流入はクニドスに古くからある貿易業と相まってこの町を栄えさせたことでしょう。