神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

クニドス(2):ペルシアの侵攻

クニドスが創建されてから、リュディアの支配下に入るまでの歴史は分かりませんでした。また、リュディアの支配下に入った事情についても明らかではありません。ヘーロドトスはリュディアとイオーニア系都市との攻防については記録しているものの、ドーリス系都市との攻防については記録していません。ヘーロドトスの出身がドーリス系のハリカルナッソスであったため、何か書けない事情があったのかもしれません。ヘーロドトスはすでに征服されたあとの状態を次のように述べるだけです。

その後しばらくの間に、ハリュス河以西の住民はほとんど全部クロイソスに征服された。すなわちキリキア人とリュキア人とを除き他のすべての民族を、クロイソスは自分の支配下に制圧したのである。これらの種族とは、リュディア人、プリュギア人、ミュシア人、マリアンデュノイ人、カリュベス人、パプラゴニア人、トラキア系のテュノイ人とビテュニア人、カリア人、イオニア人ドーリス人、アイオリス人、パンピュリア人である。


ヘロドトス著「歴史」巻1、28 から


その後、リュディアは東隣のペルシアによって滅ぼされ、リュディアに服属していたエーゲ海東岸のギリシア系都市もペルシアによって征服されることになりました。ペルシアはまずイオーニア系都市の攻略から始めました。クニドス人は、ペルシアがイオーニアを攻めている間に、自分たちの町の横に運河を掘って、町を大陸から切り離すことを試みました。この頃のペルシアは、まだ海軍を持っていなかったので、このような策が考えられたのでした。

クニドス人はハルバコスがイオニア征服にかかっている期間中、自領を島にしてしまう計画で、五スタディオンほどのこの狭い地峡に運河を掘り始めたのである。実際クニドスの領土全域は地峡より海に向う側(西方)に収まっていたわけで、クニドス領が大陸側に尽きるところに、彼らが運河を掘った地峡があったのである。


ヘロドトス著「歴史」巻1、174 から

現在残っている遺跡を見ると地峡と大陸側にクニドスの遺跡が広がっていますが、おそらくこれはローマ時代のもので、当時の町は地峡より西側(島側)にあったのでしょう。この地峡に運河を掘って、町を大陸から切り離そうとしたのでした。

しかし、運河の掘削中に事故が多発したために、クニドスの政府はこれが何かの神意でないかと疑いました。そして、デルポイに神託を伺うための使者を送ったのでした。

 さてクニドス人が多数の人員を使って運河を開墾中に、作業員が岩石の破片で体のいろいろな部分、それも特に眼を傷つけられることがしばしばで、それも通常の度を超えて頻発するので、なにか神意によるものではないかと思われた。そこでデルポイに神託を伺う使者を送り、作業を阻碍する真因を訊ねさせたところ、巫女は短長六脚韻(トリメトロス)の詩句によって次のように答えた、とクニドス人は伝えている。

  地峡に砦を構えることも、濠を掘ることも相ならぬぞ。
  ゼウスにその御心あらば、島になされた筈じゃ・

 巫女がこの託宣を下すとクニドス人は運河の開墾を中止し、ハルバコスが軍を率いて来攻するや、戦わずして降伏してしまったのである。


同上


ペルシアの支配下にありましたが、クニドスは貿易で栄えました。クニドスがエジプトと交易していたことは、次の記事から分かります。

(エジプト王)アマシスはギリシア贔屓の人で、そのことは幾人ものギリシア人に彼が好意を示したことによっても明らかであるが、なかんずくエジプトに渡来したギリシア人にはナウクラティスの町に居住することを許し、ここに居住することを望まぬ渡航者には、彼らが神々の祭壇や神域を設けるための土地を与えた。それらの中で最も大きく、最も有名で、かつ参詣者の最も多い神域は、ヘレニオン(「ギリシア神社」)と呼ばれているもので、これは次のギリシア諸都市が協同で建立したものである。イオニア系の町ではキオステオスポカイアクラゾメナイの諸市、ドーリス系ではロドス、クニドスハリカルナッソスおよびパセリス、アイオリス系ではミュティレネが唯一の町であった。


ヘロドトス著「歴史」巻2、178 から