神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

クニドス(7):「クニドスのアプロディーテー」と「クニドスのデーメーテール」

クニドスのアプロディーテーというのは、クニドスのアプロティーテーの神殿の中にあった大理石の神像のことです。古代ギリシア・ローマ世界で有名な彫像でしたが、残念ながら現存していません。その代わり古代に作られたいくつかのコピーが現存しています。

(上:クニドスのアプロディーテー神殿の遺跡)


神像の作者はBC 4世紀中頃に活躍したアテーナイの有名な彫刻家ラクシテレースでした。BC 4世紀中頃というと前回ご紹介したクニドスの天文学者エウドクソスが生涯を終えた頃です。AD 1世紀のローマの政治家・文人の大プリニウスによれば、この神像には以下のような逸話があるということです。


当時、クニドスの沖合にあるコース島の市政府は、愛と美の女神アプロディーテーの神像を、有名な彫刻家プラクシテレースに発注しました。プラクシテレースは、服をまとった神像と裸の神像の2つを作りました。コースの市政府は服をまとった神像を購入しましたが、裸の神像のほうは受け取りを拒否しました。実は当時はまだ女性のヌードの彫像はなく、それを作ったのはプラクシテレースが初めてだったからです。男性の裸体彫像は当時、普通にあったのでしたが。
 コースの為政者たちは、女神のヌードの彫像なぞはけしからん、町の名誉を傷つけると判断したのです。そのことを知ったクニドスの市政府はヌードのほうの女神像を購入したのでした。そしてこの神像を市内のアプロディーテー神殿に安置したのでした。たちまち、この神像は近隣に名を轟かすことになりました。


私が興味があるのは、当時、この神殿に参詣した人々はこの神像をどのような目で見ていたか、ということです。神への崇拝の念を持って見たのでしょうか、それとも好奇の目でもって見たのでしょうか。当時のギリシアの社会が極端な男性社会だったことも考えに入れなければいけないと思います。


クニドスのアプロディーテーのことを詠んだ、哲学者プラトーンの作と伝えられる寸詩があります。

クニドスで神像を見た時にキュプリス(=アプロディーテーの別名)は言い給うた。
「なんということ! プラクシテレースはどこで裸の私を見たの?」


夜中に神殿に侵入して、この女神像にけしからぬ振舞いをしようとした青年がいた、という伝説もあります。その青年は見つかり、恥ずかしさのあまり神殿の近くの崖から身を投げたということです。
また、この神像が作られてから100年ぐらいあとのことになりますが、当時のビテュニア国王ニコメーデース1世は、クニドス市の巨額の債務を全て肩代わりする代わりにこの神像を譲って欲しいと提案しました。しかし、クニドス市はそれを拒絶したということです。


ではクニドスのアプロディーテーの彫像がどのようなものであったかといいますと、前にもお話ししたように、この彫像は現存していません。その代わり古代に作られたいくつかのコピーが現存しているので、そこから想像するしかありません。ただし、コピーと言っても頭部だけしか残っていないものもありますし、幸い全身が残っていた場合にも、コピーによって(私の感想では)印象が随分異なるように思います。以下は、コピーの一部です。



(右:ルドヴィシ・コレクションの中の「クニドスのアプロディーテー」)




(右:バチカン美術館の「コロンナのウェヌス」)


(左:ルーブル美術館の「カウフマンの頭部」。これもクニドスのアプロディーテーのコピーとされています。)


クニドスの女神像ということでもうひとつご紹介したいのは、クニドスのデーメーテールと呼ばれる神像です。デーメーテールは農業の女神です。「クニドスのアプロディーテー」は現存しませんが、「クニドスのデーメーテール」はクニドスの遺跡から1857年か58年に発掘されたものです。かなり損傷していますが、気品のある女神像だと思います。




(左:クニドスのデーメーテール

クニドス(6):エウドクソス

クテーシアースがペルシアの宮廷で活躍していた頃に生まれたと思われるクニドス人の中にエウドクソスがいます。エウドクソスの父アイスキネースは星を見ることに興味を持っていたそうで、幼いエウドクソスはその影響を受けました。彼は成人すると天文学者になったのでした。そして、各地で学問を修めたのちクニドスに戻り、そこに天文台を建てました。そして、人々に天文学と気象学と神学を教えました。天文学と気象学が一緒になっていることに違和感があるかもしれません。しかし、当時はこの2つの学問は明確には分かれていませんでした。さらに神学がここに登場することにもっと違和感があるかもしれません。しかし、当時では神々は天界に住んでいると考えられていましたし、太陽や月は神と考えられ、さらには星々の規則的な動きは神々の性質に由来するものと考えられていたので、天文学から神学に通じる道筋があったのでした。


エウドクソスの略歴を述べていきます。学問を修めようと決心した若き日のエウドクソスは最初、イタリア南部のギリシア植民市のタラスに向いました。タラスは今のターラントです。当時はギリシア人の都市で、BC 706年にスパルタ人によって建設されたとされています。彼はそこで有名な数学者で天文学者のアルキュタスの弟子になって学びました。アルキュタスはタラスの政治家でもあるという多才な人で、哲学者プラトーンの友人でもありました。また、シケリア島(シシリー島)を訪れ、ピリストンから医学を学びました。その後、23歳の時にアテーナイに向い、ソークラテースの弟子たちと交流し、プラトーンや他の哲学者たちの講義を数か月間受けました。当時、エウドクソスはとても貧しくて、アテーナイの都心に家を借りることが出来ませんでした。彼は物価の安い港町のペイライエウスに家を借りたのですが、そこからプラトーンの学園のあるアカデメイアまで11kmの距離がありました。彼は片道11kmの距離を歩いてプラトーンの講義を受け、そして同じ距離を歩いて借家まで戻る生活をしていました。エウドクソスの友人たちは、当時の天文学の中心地であったエジプトのイウヌウ、ギリシア名はヘリオポリス(=太陽の町)というところに彼が留学出来るのに充分な資金を集め、彼に渡しました。こうしてエウドクソスはヘリオポリス天文学と数学を学ぶことが出来ました。


その後、エウドクソスは今のイスタンブールに近いキュージコスや、クニドスに近いハリカルナッソスに滞在したのちアテーナイのプラトーンの学園アカデメイアに戻りました。この時期、彼がアカデメイアでえアリストテレースを教えたという伝えもあります。そして最後にアテーナイを去って、故郷のクニドスに戻り、そこに自分の学園を開いたのでした。


英語版のWikipediaの「クニドスのエウドクソス」の項によるとエウドクソスは、古代ギリシアの数学者としてはアルキメデスの次に偉大な数学者だったということです。彼は円錐の体積が同じ底辺と高さを持つ円柱の体積の1/3であることを証明しました。また、のちの積分の考えにつながるアイディアももっていて、それは120年ほどのちにアルキメデスによって発展させられ、そしてさらに1900年ほどのちにニュートンライプニッツによって発展させられて近代の積分法になったのでした。また、無理数についても考察していて、実際は無理数を考えなければならない証明の局面において、無理数を登場させるのを回避するような巧妙な証明を編み出したということです。

  • ここにはBC 6世紀の哲学者・数学者のピュータゴラースの教説の悪影響が見てとれます。ピュータゴラースは万物は比例関係に基づいていると考えており、それは自然数自然数の比でした(例えば2:3のようにです)。この教説が古代ギリシアの数学に与えた悪影響は大きくて、自然数自然数の比で表わすことの出来ない無理数は、文字通り無理なものとして嫌われることになりました。そのため当時は、自然数自然数の比で表わすことの出来ない比例関係は証明に登場してはいけないことになっていたのでした。

このような制約を回避して、実質上無理数を扱った証明を使ったのがエウドクソスだということです。しかし、私にはその詳細を理解することが出来ませんでした。


天文学者としての業績は、天動説に基づいて、星々の運動のメカニズムを同心球の組合せとしてモデル化したことです。しかし、この説も私にはよく理解出来ませんでした。そうはいっても、私が理解出来た範囲を何とか説明してみます。


まず、恒星が貼り付いている球があります。これは1日に1回回転します。さらに、この球から見て少しずつ動く球があり、この球に太陽が貼り付いています。この球は1年で1回転します。この回転軸は、最初の球の回転軸に対して傾いています。さらに太陽の球に対して約1か月で1回転する球があり、この球には月が貼り付いています。この回転軸も最初の2つの球の回転軸のどれに対しても傾いています。

(上:英語版のWikipediaの「クニドスのエクドスソス」の項より)


ここまでは何とか分かるのですが、さらに惑星の動きを説明するために、それぞれの惑星について同心球を2つ割当てているのを見ると、もう私には理解出来ません。これらの球の動きは、英語版のWikipediaの「クニドスのエクドスソス」の項にアニメーションが出ているのですが、そのアニメーションを見ても私には理解出来ませんでした。それはともかくとして、このような回転軸の方向がそれぞれ異なる複数の同心球が示す動きが複雑なものになることは想像できると思います。そしてそのような球面の動きを考えるには、まるでルービックキューブについて考えるような、相当な知力が必要であることも想像できると思います。


さて、彼が生涯を終えたのはBC 355年頃と推測されています。彼が生きていた期間のクニドスはずっとペルシア領でした。のちにペルシア王国を倒すことになるアレクサンドロスマケドニア王国で誕生したのは、彼が死んだ年に近いBC 356年でした。

クニドス(5):クテーシアース

ペロポネーソス戦争はスパルタの勝利に終わります(BC 404)。クニドスはスパルタの支配下に置かれます。この頃のクニドス出身の人物としては、ペルシア王アルタクセルクセース2世の侍医をしていたクテーシアースという人物がいます。ペロポネーソス戦争が終結したまさにこの年、BC 404年にアルタクセルクセース2世は即位したのですが、彼の弟キューロスは自分のほうが兄よりも優秀であると自負し、また母親からもより可愛がられていたので、この王位継承に不満を持っていました。その後BC 401年に彼は兄に対して謀反します。その討伐に向かうアルタクセルクセースにクテーシアースは随行していました。両者は戦場で相互いに撃ち合い、アルタクセルクセース2世はキューロスによって傷を負います。その場にクテーシアースもいて、王に傷の処置をしたということです。これを伝えているのはクセノポーンの「アナバシス」ですが、ただしクセノポーン自身はその場には居合わせず、クテーシアース自身がそう言ったということをクセノポーンが伝えているだけです。クテーシアースの自己申告なので本当に彼が戦場でペルシア王の傷を治したかどうかは怪しいところです。

敵(=アルタクセルクセス側)が壊走し始めると、キュロス麾下の六百の騎兵隊も、敵を追撃するに急であったために散り散りになってしまい、キュロスのまわりには極めて僅かの人数しか残らず、ほとんど「陪食方(ホモトラペゾイ)」と呼ばれる者たちだけになってしまった。これらの者たちと共に踏み止まっていたキュロスは、大王(=アルタクセルクセス)と彼をとりまく密集陣を認めるや、もはや自らを制し切れず、「彼奴が見えたぞ」と言うなり、大王に向って突進して胸の辺りに切りつけ、胸当を貫いて傷を負わせたという。これは医師クテシアスの言うところで、彼は自分がこの傷を治療したとも言っている。


クセノポーン「アナバシス」 巻1・8章 松平千秋訳より


(左:アルタクセルクセース2世)


このクテーシアースは、やがてペルシアの歴史をギリシア語で書き、医者のかたわら歴史家にもなります。クテーシアースの生涯についてネットで調べたところ 阿部拓児著「翻訳・注釈 フォティオス『文庫』におけるクテシアス『ペルシア史』摘要—キュロスからクセルクセスの治世まで (西洋古代史研究(2007),7: 17-36)」を見つけました。ここから引用します。

クテシアスはクテシオコス、もしくはクテシアルコスの息子であり、小アジア南西部の都市クニドスの出身であった。クニドスは当時ギリシア医学の中心地として知られていたが、クテシアスもまた医師であった。クテシアスは、ペルシア大王アルタクセルクセス2世にたいし、王弟の小キュロスが反乱を起こした時代(前401年)の人物である。彼は何らかの戦争に巻き込まれてペルシア帝国中央へ捕虜として連行された後、アルタクセルクセス2世と彼の母パリュサティスのもとで医師として働いた。17年間をペルシア宮廷で過ごし、おそらくは計略によって、ロドス経由でクニドス、そしてスパルタへと渡った。エーゲ海世界に戻った後、『ペルシア史』『インド史』『アジアの貢納について』題名不明の周遊記などを著した。


阿部拓児著「翻訳・注釈 フォティオス『文庫』におけるクテシアス『ペルシア史』摘要—キュロスからクセルクセスの治世まで (西洋古代史研究(2007),7: 17-36)」より

以上がクテーシアースの生涯です。しかしこの箇所の注には

むろん、このようなクテシアスの経歴には大小様々な異論が呈されているが、これについては稿を改めて論じるべきだろう。

とあるので、クテーシアースの生涯については確実なことは分からない、と受け止めておくべきなのでしょう。


さて、クテーシアースの書いた「ペルシア史」ですが、書いた本人がペルシアの宮廷に滞在していることや、本の中で、記録したことは自分が目撃したことかあるいはペルシア人から聞いたことだ、と本人が主張していることから、古代の文人・学者の中にはこの書物の内容を信じる人も多くいたようです。しかし、彼より500年ほどのちの文人プルータルコスは、この「ペルシア史」を真実と作り話が混ざったものと考えていたようです。彼はアルタクセルクセース2世の伝記を書く際に「ペルシア史」を利用していますが、その伝記にはクテーシアースの記述に対する批判的な見解が述べられています。たとえば、こんな記述があります。

しかしクテーシアースはたいだい著書の中に信ずることのできない途方もない話を到るところから集めて入れているけれども、この王や王妃や王大后や王子たちの侍医として長くいたのであるから、王の名前を知らずにいたとは考えられない。


プルータルコス著「アルタクセルクセース伝」1節 河野与一訳 より(ただし、旧漢字、旧かなづかいは、現代のものに改めました。)

これは「ペルシア史」には「途方もない話」も含まれているが真実の話も含まれている、というふうにプルータルコスは考えていたということでしょう。さらに「インド史」になると、クテーシアースが話を面白くしたのか、クテーシアースに話を伝えたペルシア人が話を面白くしたのか、両者がともどもそうしたのか知りませんが、片足だけの人種や、傘として使用できるほど大きな足の人種の話が含まれているそうです。

しかし、そういった記述の一方で、インドに象がいることを正確に記述しており、これはギリシア人として初めての記述だそうです。ギリシア人はアフリカに象がいることは知っていたのですが、インドに象がいることはそれまで知らなかったのでした。


さて、クテーシアースがまだペルシアの宮廷にいる時、アテーナイの将軍コノーンからの手紙を受け取るという出来事がありました。コノーンはペロポネーソス戦争の最後の海戦になったアイゴス・ポタモイの海戦でスパルタに負け、このままアテーナイに帰れば衆愚制になったアテーナイ政府によって重く罰せられると考え、キュプロスに亡命していました。そして彼はペルシアの力を借りてスパルタを負かすことを計画しました。その計画をペルシア王アルタクセルクセース2世に伝えるための手紙をクテーシアースに託したのでした。

コノーンはアイゴス ポタモイの海戦後キュプロスで日を過ごしていたが、安全な生活を好まず、海の上で風の変わるのを待っているように政局の変転を待っていた。ところで、自分の計画を書いて大王に手紙を送った。(中略)クテーシアースはその手紙を受け取ると、コノーンが書いた文句に添え書きをして、クテーシアースも海上の事柄には役に立つ人だからコノーンのところへ送るようにと付け加えたそうである。しかし、クテーシアースは、王が自身の考えでこの任務を自分に授けたのだと言っている。


プルータルコス著「アルタクセルクセース伝」21節 河野与一訳 より(ただし、旧漢字、旧かなづかいは、現代のものに改めました。)

クテーシアースがコノーンからの手紙に勝手に文を追加したかどうかは定かではありませんが、いずれにせよクテーシアースはキュプロスに向い、コノーンと会談しました。そしてこの会談によってコノーンの計画はアルタクセルクセース2世の受け入れるところとなりました。ペルシアに迎えられたコノーンは、クニドス沖の海戦でスパルタを撃破し、エーゲ海制海権をスパルタから奪ったのでした。


この海戦の結果は重大で、この海戦によってペルシアは再び小アジアギリシア人都市を支配下に収めることをスパルタをはじめとするギリシア諸都市に認めさせたのでした。もちろんその中にはクニドスも入っていました。

アルタクセルクセースはファルナバゾスとコノーンの力でクニドス付近の海戦(BC 394年)に勝ってスパルタの制海権を奪い、ギリシャ全体を屈服させた結果、アンタルキデースの講和と呼ばれる有名な講和を結ぶように主となってギリシャの諸市に斡旋した。このアンタルキダースはスパルタの人で・・・、アジアにあるギリシャの町とアジアに付属する島を全部スパルタ人が手放して王に所有させ貢物を献ずるように取決めた・・・


同上

クニドス(4):ペロポネーソス戦争

BC 431年、ペロポネーソス戦争が始まりました。これはアテーナイを中心とするデーロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネーソス同盟との間の戦争でした。クニドスはスパルタの植民地でありながら、デーロス同盟の一員としてアテーナイに味方しました。しかし、BC 413年にアテーナイとその同盟軍がシシリー島(当時の言い方では「シケリア島」)で大敗すると、アテーナイのエーゲ海東岸の支配はにわかに揺らぎ始めます。そこにペルシアの太守ティサペルネースから、デーロス同盟離反の誘いがやってきます。

(BC 412年)冬ペロポネーソスをあとに出航したラケダイモーン人(=スパルタ人)ヒッポクラテースは、ディアゴラースの子ドーリエウス以下計三名の指揮官が率いるトゥーリオイ船隊十艘と、ラコーニア船一艘、シュラクーサイ船一艘とを従えて、海路クニドスに到着した。クニドスはこのときすでにティッサペルネースに使嗾されて、離叛していた。


トゥーキュディデース「戦史 巻8・35」より

なぜペルシアの太守がクニドスにアテーナイからの離叛を説いたのかというと、この時、ペルシアはスパルタと同盟を結んでいたからなのでした。スパルタにとってかつては仇敵だったはずのペルシアが、ギリシア内部の戦争という当時の状況下では、資金援助を得るための味方になっていたのでした。クニドスはアテーナイから離叛し、スパルタとその同盟国の艦船の入港を許します。

やがてかれら(=スパルタとその同盟の艦船)の到着がミーレートスの本営に伝えられると、折返してミーレートスからの指令が届き、船隊の半数をもってクニドスの警備をおこない、残りの半数はトリオピオン附近の水域に待機して、エジプトから入港する商船を拿捕することを命じた。このトリオピオンというのは、クニドス領の突端に伸びている岬であり、アポローン神の聖域とされていた。


同上

スパルタを中心とするペロポネーソス同盟の、東エーゲ海における海軍基地はミーレートスでした。ミーレートスは伝説によればアテーナイの植民市であり、デーロス同盟にも参加していましたが、この時点ではスパルタ側に寝返っていました。ミーレートスの本営はクニドスに到着したペロポネーソス艦隊に対して「エジプトから入港する商船を拿捕することを命じた」のでした。クニドスは以前からエジプトとの交易が盛んでした。これらの商船はエジプトとアテーナイの間の交易を担っていたと思われます。
一方、この海域におけるデーロス同盟側の海軍基地は、ミーレートスとは目と鼻の先にあるサモス島にありました。クニドスにペロポネーソス側艦船が入港したことを知ったアテーナイ側は、さっそくクニドス奪回を試みます。

しかしアテーナイ勢も知らせを受けると直ちにサモスから発進し、トリオピオン附近の哨戒にあたっていた相手側の六艘を捕獲したが、これらの船の乗組は遁走した。その後クニドスに船隊を乗りつけるや、ポリスを攻撃、城壁の備えもない町であったのでこれを奪取する一歩手前まで追いつめた。翌日寄せ手は再び攻撃をあらたにしたが、無城壁とはいえ守り手は夜間に防御柵をめぐらせるなど防備を充実強化させており、またトリオピオンで船を奪われて逃げ戻った人数が城内の加勢に加わっていたので、攻撃勢は前日ほどの損害を敵に与えることができぬままに陣を引き、クニドス領内の耕地に破壊行為を加えたるのち、海路サモスに引き上げた。


同上

アテーナイ側のクニドス奪回は失敗に終わりました。


その後、スパルタから新たに派遣された27隻の艦隊がクニドス近くのカウノスに到着すると、キオス島に駐留していたスパルタの提督アステュオコスが、これと合流するために指揮下の艦隊を率いてカウノスに向かいました。その途中、この艦隊はクニドスに寄港しました。

アステュオコスは、夜に入ってからクニドスに到着したが、クニドス人はかれがここで船員を下船させることを押しとどめ、そのままアテーナイ側の二十艘に攻撃を挑むべく直行すべきである、と進言したので、止むなくかれはこの指示に従った。このアテーナイ船隊は、サモス駐留の指揮官の一人カルミーノスの麾下のもので、かれらもアステュオコスと同様に、ペロポネーソス本土から接近中の二十七艘の船隊を迎えるべく、警戒線を敷いていたのである。


トゥーキュディデース「戦史 巻8・41」より

アステュオコス率いるスパルタ艦隊はシューメー島付近でアテーナイ艦隊の一部を発見、これを包囲攻撃します。これに対してアテーナイ側は多勢に無勢とみて、退却を始めました。

ここに至ってアテーナイ勢は退却に移ったが、その間に六艘を失い、残余はテウトルーッサ島に退避、そこからハリカルナッソスに逃れた。この後、ペロポネーソス船隊はクニドスに入港し、カウノスからの二十七艘と合流したのち、全船隊うちそろって漕ぎ出して、シューメー島に勝利碑を築いたのち、再びクニドスに戻ってここに投錨した。


トゥーキュディデース「戦史 巻8・42」より

スパルタ側は戦闘に勝利したのちにクニドスに入港したのでした。

クニドス(3):ペルシアとアテーナイ

さて、ペルシアの支配下に入って20年ぐらい経った頃、ペルシア王ダーレイオスがイタリア南部のギリシア系都市に送った偵察の者たちを、タラス(現在のターラント)から亡命していたギロスという者が助けたことがありました。

クロトンを発ったペルシア人たちは、イアピュギアへ漂着し、ここで奴隷の身に落とされていたところ、タラスから亡命していたギロスなる者がこれを救い、ダレイオスの許へ帰してやった。ダレイオスはこの働きに対して望みのものを与えようといったところ、ギロスは自分の不幸な身の上を一わたり物語った上、タラスへの復帰を望んだ。ダレイオスはしかし、ギロスのために大船隊をイタリアへ向ければ、ギリシア世界を動揺させる結果になるのを恐れ、彼らを帰国させるにはクニドス人だけで十分であろうといった。タラス人とは親しい間柄のクニドス人によれば、ギロスの帰国も最も円滑に行われるであろうと考えたのである。ダレイオスはその約束を守り、クニドスに使者を送って、ギロスをタラスへ復帰させることを命じた。クニドス人はダレイオスの命に従ったが、タラス人を説得するには至らず、さりとて武力を用いて強行するだけの力もなかったのである。


ヘロドトス著「歴史」巻3、138 から

クニドスにタラスを従わせるだけの武力があるわけはないので、ダーレイオス王のこの命令は元々無理筋の命令でした。その後クロトン人がギロスをどうしたのか気になりますが、そのことについてヘーロドトスは記していません。さて、ダーレイオスが「タラス人とは親しい間柄のクニドス人」と考えたのは、タラスもクニドスと同様にスパルタの植民によって建設された都市だからです。しかし、ダーレイオスが「ギロスのために大船隊をイタリアへ向ければ、ギリシア世界を動揺させる結果になるのを恐れ」たのはなぜでしょうか? ダーレイオスはこの直後に、ギロスと同じようにサモスから亡命してきたシュロソーンに対しては、艦隊を派遣してサモスの政権を握らせました。もちろん、シュロソーンはペルシアに服属した状態でサモスを支配したのでした。ギロスについても同じように彼を援助することでタラスをペルシアの支配下に置くことは考えられることでした。ただ、当時としてはタラスのあるイタリアはペルシアから見て非常に遠いと判断したのでしょう。まずは手近なサモスを押さえて、徐々に西進するつもりだったと思われます。


BC 499年にはイオーニアの反乱が起きます。しかし、クニドスはこの反乱に加担しませんでした。BC 490年の1回目のペルシア戦争とBC 480年の2回目のペルシア戦争でクニドスはおそらくペルシア軍の一員として軍船の派遣を要請されたと想像します。2回目のペルシア戦争の時の海上戦力をヘーロドトスが民族別に記述していますが、その中に「アジア在住のドーリス人」というのがあり、この中にクニドスが含まれていたと想像します。

アジア在住のドーリス人は三十隻を出し武器はギリシア風のものをもっていた。


ヘロドトス著「歴史」巻7、93 から

2回目のペルシア戦争はサラミースの海戦によりペルシアが敗退し、クニドスの軍船もアジア側へ帰っていきました。そしてキューメーでその年の冬を越し、翌年の春にサモスに移動しました。そこをギリシア側に攻められ、ペルシアのエーゲ海東岸の支配が崩壊したのでした。


その後クニドスは、アテーナイを盟主とするデーロス同盟に参加します。デーロス同盟は対ペルシアの軍事同盟でした。

(上:デーロス島の遺跡)



アテーナイ人は、(中略)指揮権をうけ継ぎ、その第一段階としてペルシア人追討のために、どの加盟国が軍資金、どの国が軍船を供給するべきかをとりきめた。その表向きの理由は、ペルシア王の領土に破壊行為を加え、報復する、ということであった。そのためにはじめてギリシア同盟財務官というアテーナイ人のための官職が設けられ、この職にある者たちが同盟年賦金を収納することとなった。年賦金というのは、同盟収入のうち貨幣で納入される部分の名称である。(中略)同盟財務局はデーロス島に設置され、加盟諸国の代表会議は同島の神殿において開催されることとなった。


トゥーキュディデース「戦史 巻1・96」より

しかし、時が経つにつれて同盟はアテーナイが他国を支配するための機構に変質していきます。数か国がアテーナイに反旗を翻しますが、そのたびにアテーナイと同盟国による軍によって鎮圧されました。クニドスは反旗を翻すことも出来ず、アテーナイに忠誠を尽くし続けていました。

故国から離れることを嫌った多くの同盟諸国の市民らは、遠征軍に参加するのを躊躇し、賦課された軍船を供給する代りにこれに見合う年賦金の査定をうけて計上された費用を分担した。そのために、かれらが供給する資金を元にアテーナイ人はますます海軍を増強したが、同盟諸国側は、いざアテーナイから離叛しようとしても準備は不足し、戦闘訓練もおこなわれたことのない状態に陥っていた・・・・


トゥーキュディデース「戦史 巻1・99」より

クニドス(2):ペルシアの侵攻

クニドスが創建されてから、リュディアの支配下に入るまでの歴史は分かりませんでした。また、リュディアの支配下に入った事情についても明らかではありません。ヘーロドトスはリュディアとイオーニア系都市との攻防については記録しているものの、ドーリス系都市との攻防については記録していません。ヘーロドトスの出身がドーリス系のハリカルナッソスであったため、何か書けない事情があったのかもしれません。ヘーロドトスはすでに征服されたあとの状態を次のように述べるだけです。

その後しばらくの間に、ハリュス河以西の住民はほとんど全部クロイソスに征服された。すなわちキリキア人とリュキア人とを除き他のすべての民族を、クロイソスは自分の支配下に制圧したのである。これらの種族とは、リュディア人、プリュギア人、ミュシア人、マリアンデュノイ人、カリュベス人、パプラゴニア人、トラキア系のテュノイ人とビテュニア人、カリア人、イオニア人ドーリス人、アイオリス人、パンピュリア人である。


ヘロドトス著「歴史」巻1、28 から


その後、リュディアは東隣のペルシアによって滅ぼされ、リュディアに服属していたエーゲ海東岸のギリシア系都市もペルシアによって征服されることになりました。ペルシアはまずイオーニア系都市の攻略から始めました。クニドス人は、ペルシアがイオーニアを攻めている間に、自分たちの町の横に運河を掘って、町を大陸から切り離すことを試みました。この頃のペルシアは、まだ海軍を持っていなかったので、このような策が考えられたのでした。

クニドス人はハルバコスがイオニア征服にかかっている期間中、自領を島にしてしまう計画で、五スタディオンほどのこの狭い地峡に運河を掘り始めたのである。実際クニドスの領土全域は地峡より海に向う側(西方)に収まっていたわけで、クニドス領が大陸側に尽きるところに、彼らが運河を掘った地峡があったのである。


ヘロドトス著「歴史」巻1、174 から

現在残っている遺跡を見ると地峡と大陸側にクニドスの遺跡が広がっていますが、おそらくこれはローマ時代のもので、当時の町は地峡より西側(島側)にあったのでしょう。この地峡に運河を掘って、町を大陸から切り離そうとしたのでした。

しかし、運河の掘削中に事故が多発したために、クニドスの政府はこれが何かの神意でないかと疑いました。そして、デルポイに神託を伺うための使者を送ったのでした。

 さてクニドス人が多数の人員を使って運河を開墾中に、作業員が岩石の破片で体のいろいろな部分、それも特に眼を傷つけられることがしばしばで、それも通常の度を超えて頻発するので、なにか神意によるものではないかと思われた。そこでデルポイに神託を伺う使者を送り、作業を阻碍する真因を訊ねさせたところ、巫女は短長六脚韻(トリメトロス)の詩句によって次のように答えた、とクニドス人は伝えている。

  地峡に砦を構えることも、濠を掘ることも相ならぬぞ。
  ゼウスにその御心あらば、島になされた筈じゃ・

 巫女がこの託宣を下すとクニドス人は運河の開墾を中止し、ハルバコスが軍を率いて来攻するや、戦わずして降伏してしまったのである。


同上


ペルシアの支配下にありましたが、クニドスは貿易で栄えました。クニドスがエジプトと交易していたことは、次の記事から分かります。

(エジプト王)アマシスはギリシア贔屓の人で、そのことは幾人ものギリシア人に彼が好意を示したことによっても明らかであるが、なかんずくエジプトに渡来したギリシア人にはナウクラティスの町に居住することを許し、ここに居住することを望まぬ渡航者には、彼らが神々の祭壇や神域を設けるための土地を与えた。それらの中で最も大きく、最も有名で、かつ参詣者の最も多い神域は、ヘレニオン(「ギリシア神社」)と呼ばれているもので、これは次のギリシア諸都市が協同で建立したものである。イオニア系の町ではキオステオスポカイアクラゾメナイの諸市、ドーリス系ではロドス、クニドスハリカルナッソスおよびパセリス、アイオリス系ではミュティレネが唯一の町であった。


ヘロドトス著「歴史」巻2、178 から

クニドス(1):はじめに


(上:クニドスを含むドーリスの6都市同盟の都市)


クニドスはエーゲ海小アジア側にあったドーリス系の都市です。クニドスの町の位置は、大陸と、トリオピオンという名の島との境のところにあり、島はわずかなつなぎ目で大陸とつながっており、クニドスはまさにそのつなぎ目のところにありました。

彼らの住む地域は海に面し、トリオピオンの名で呼ばれる地方がそれであるが、(東は)ビュバッソスの半島に起る。クニドスの領土は僅かな地域を除いてことごとく海に囲まれ、北をケラメイコス湾、南をシュメおよびロドスの海域が限っている・・・・


ヘロドトス著「歴史」巻1、174 から

そして、島側の土地はアポローンの聖域とされていて、この神をトリオピオンのアポローンと呼んでいました。

・・・・このトリオピオンというのは、クニドス領の突端に伸びている岬であり、アポローン神の聖域とされていた。・・・・


トゥーキュディデース著「戦史」巻8・35 から

このアポローン神の聖地については、高津春繁著「ギリシアローマ神話辞典」の「ヒュアキントス」(花の名前のヒアシンスの由来の元になった神話上の人物)の項で気になる記述を見つけたので、ご紹介します。

ヒュアキントス
・・・・しかしヒュアキントスは、その-nth-なる接尾辞がよく示しているように、本来はギリシア先住民族の名であり、ヒュアキンティアなる祭礼をもち、この地方では少年ではなく、有髯の壮年の姿で表わされ、さらにヒュアキントトロポス(ヒュアキントスを育てる)なる称呼がクニドス島のアルテミスに与えられている点などからみて、アポローンによって取って代られた先住民族の神であったに違いない。ドーリスの諸市にはヒュアキントスなる月名が見いだされる。


通常の神話ではアポローン神の寵愛する美少年として登場するヒュアキントスですが、これを高津氏は「アポローンによって取って代られた先住民族の神」と推定しています。しかもその推定にクニドスのアルテミスが「ヒュアキントトロポス」と呼ばれていたことを用いています。するとこの「トリオピオンのアポローン」はかつてはヒュアキントスだったのかもしれません。


さて、クニドスは近隣のドーリス系の5都市と一緒に6都市同盟を形成していました。それらの町々は、ロドス島にあるリンドスイアーリュソス、カミロスの3つの町、コース島にあるコース、大陸にあるハリカルナッソスとクニドスの6つです。これら同盟の町々は「トリオピオンのアポローン」への信仰を共有していました。しかし、いつの時代のことかはっきりしませんが、この6都市同盟からハリカルナッソスが除名されて5都市同盟になってしまいました。そのわけをヘーロドトスは次のように伝えています。

彼ら(=上記の6都市)は近隣のドーリス人のどの町もトリオピオンの聖地に入れぬようにしているが、そればかりか自分たち同士の間でも、聖地に関して法を犯したものは、参与を禁じて締め出してしまったのである。その話はこうである。「トリオピオンのアポロン」の競技には、以前は優勝者に青銅の鼎が賞品に出されたが、賞品を得た者はそれを聖地から持ち帰ってはならず、その場で神に奉納せねばならぬ掟になっていた。ところがハリカルナッソスの者でアガシクレスという男が、優勝した後その掟を無視して鼎を我が家へ持ち帰り、家の前に釘で留めて吊したのである。この咎を盾に、五つの町、すなわちリンドスイアリュソス、カミロス、
コス、クニドスの諸都市は、第六番目の町に当るハリカルナッソスの参加を禁じて締め出したのである。


ヘロドトス著「歴史」巻1、144 から


クニドスを建設したのはスパルタ人であるとヘーロドトスは言っています。他の説によるとスパルタとアルゴスの両方からの植民だということです。神話の世界ではもっと以前にトリオパースまたはトリオプス(「三つ目」の意)という不気味な名前の男がクニドスの創建者ということになっているようです(高津春繁著「ギリシアローマ神話辞典」の「トリオパースまたはトリオプス」の項より)。しかしその項を読んでも、この「トリオパース」または「トリオプス」にまつわる話は見つかりませんでした。また、スパルタ人がどのような経緯でクニドスを建設したかという話をいろいろ探したのですが、これも見つけることが出来ませんでした。そのため私がクニドス建設についてご紹介出来るような話はありません。


近くのコース島には医療の神アスクレーピオスの有名な神殿がありましたが、クニドスにもアスクレーピオスの神殿はありました。そしてこの両方の土地にはアスクレーピオスの後裔と称する医師団がいました。それらがやがて古代ギリシアの医学におけるコース派とクニドス派になっていくのですが、英語版Wikipediaの「クニドス」の項によれば、クニドス派はヘレニズム時代より前にはさかのぼれないそうです。



(右:医療の神アスクレーピオス)