おそらくクレオブーロスが亡くなったあとのことと思いますが、エジプトのアマシス王(在位:BC570~526)がギリシア各地の神殿に高価な奉納をしたことがありました。この時、リンドスのアテーナー・リンディア(神殿)は石の神像二基と麻製の鎧を受け取りました。
(上:エジプト王アマシス)
アマシスはギリシア各地へもさまざまな奉納品を献納したが、キュレネへは黄金を被せたアテナ像と自分の肖像画を、リンドスのアテナへは石の神像二基と見事な麻製の鎧を、サモスのヘラへは自分の姿を写した木像二基を奉納した。この木像は大神殿の戸口の背後に安置され、私の時代まで残っていた。
アマシスがサモスへ奉納品を送ったのは、アイアケスの子ポリュクラテスと自分との間の客遇関係によるものであったが、リンドスへ奉納したのはそのような客遇関係によるのではなく、リンドスのアテナ神殿が、アイギュプトスの息子たちを逃れてこの地に立ち寄ったダナオスの娘たちによって建立されたという伝承があったからにほかならない。
ヘロドトス著「歴史」巻2、182 から
アマシス王がこのようなことをしたのは、出来るだけ多くのギリシア都市を自分の味方につけたかったからだと思います。アマシス王はペルシアの建国の初めからペルシアに対抗してきましたが、ペルシアはどんどん周辺諸国を併合していき、エジプト侵攻も時間の問題になっていました。ロドス島はエジプトに傭兵を出していましたので、奉納品を運んで来たエジプトの役人たちは傭兵のリクルートをも行ったかもしれません。リンドスの人の傭兵の記録を見つけることは出来ませんでしたが、同じロドス島の都市イアーリュソスの人が傭兵として、当時はまだ王ではなく将軍であったアマシスの軍隊で働いていたことは記録に残っています。
さて、麻製の鎧については。アマシス王がスパルタにも同じような鎧を贈っており、ヘーロドトスがそれについて描写していますので、そこからアテーナー・リンディアに奉納された鎧がどんなものだったかが分かります。
この鎧は多数の模様を織り込んだ麻製のもので、黄金と木綿の糸で刺繍が施されていた。ことに驚くべきことは、織糸の一本一本がきわめて細いにもかかわらず、実に三百六十本の細糸を撚り合わせて作られていることで、しかもその細糸が一本残らずよく目に見えるのである。アマシスがリンドスのアテナに奉納した鎧もこれと同種のものである。
ヘロドトス著「歴史」巻3、47 から
アマシス王は奉納品によってエジプトの富をギリシア人に印象付け、その上で傭兵の募集や同盟の提案をしたのでしょう。当時のエジプトは繁栄しておりました。
エジプトはアマシス王の治世下に、空前の反映を示したといわれる。ナイルは大地に、大地は人間に豊かな収穫をもたらし、人の住む町の数はエジプト国内で二万に達したという。
ヘロドトス著「歴史」巻2、177 から
しかし、情勢はアマシス王の期待するようには展開しませんでした。当時、東エーゲ海で勢力を持っていたサモスの僭主ポリュクラテースはアマシスとの同盟を破棄してペルシア側につきました。また傭兵の中でも、リンドスと同じドーリス系の都市ハリカルナッソス出身の傭兵隊長パネースが、エジプトから脱走してペルシア側につきました。幸いなことにペルシアのエジプト侵攻が始まる前にアマシスは死去しますが、エジプトがペルシアによって滅ぼされるのはアマシスの死の翌年(BC 525年)でした。
リンドスを含むロドス島がペルシアの支配下に入った次第をヘーロドトスは記していません。いつロドス島がペルシアの支配下に入ったか、はっきりした記述を見つけることが出来ませんでした。おそらくは、エジプト征服後まもなくのことではないかと想像します。その後の歴史的事件、たとえばBC 499~493年のイオーニアの反乱、BC 490年とBC 480年のペルシア戦争にリンドスはあまり巻き込まれずに済んだようです。