神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

クニドス(5):クテーシアース

ペロポネーソス戦争はスパルタの勝利に終わります(BC 404)。クニドスはスパルタの支配下に置かれます。この頃のクニドス出身の人物としては、ペルシア王アルタクセルクセース2世の侍医をしていたクテーシアースという人物がいます。ペロポネーソス戦争が終結したまさにこの年、BC 404年にアルタクセルクセース2世は即位したのですが、彼の弟キューロスは自分のほうが兄よりも優秀であると自負し、また母親からもより可愛がられていたので、この王位継承に不満を持っていました。その後BC 401年に彼は兄に対して謀反します。その討伐に向かうアルタクセルクセースにクテーシアースは随行していました。両者は戦場で相互いに撃ち合い、アルタクセルクセース2世はキューロスによって傷を負います。その場にクテーシアースもいて、王に傷の処置をしたということです。これを伝えているのはクセノポーンの「アナバシス」ですが、ただしクセノポーン自身はその場には居合わせず、クテーシアース自身がそう言ったということをクセノポーンが伝えているだけです。クテーシアースの自己申告なので本当に彼が戦場でペルシア王の傷を治したかどうかは怪しいところです。

敵(=アルタクセルクセス側)が壊走し始めると、キュロス麾下の六百の騎兵隊も、敵を追撃するに急であったために散り散りになってしまい、キュロスのまわりには極めて僅かの人数しか残らず、ほとんど「陪食方(ホモトラペゾイ)」と呼ばれる者たちだけになってしまった。これらの者たちと共に踏み止まっていたキュロスは、大王(=アルタクセルクセス)と彼をとりまく密集陣を認めるや、もはや自らを制し切れず、「彼奴が見えたぞ」と言うなり、大王に向って突進して胸の辺りに切りつけ、胸当を貫いて傷を負わせたという。これは医師クテシアスの言うところで、彼は自分がこの傷を治療したとも言っている。


クセノポーン「アナバシス」 巻1・8章 松平千秋訳より


(左:アルタクセルクセース2世)


このクテーシアースは、やがてペルシアの歴史をギリシア語で書き、医者のかたわら歴史家にもなります。クテーシアースの生涯についてネットで調べたところ 阿部拓児著「翻訳・注釈 フォティオス『文庫』におけるクテシアス『ペルシア史』摘要—キュロスからクセルクセスの治世まで (西洋古代史研究(2007),7: 17-36)」を見つけました。ここから引用します。

クテシアスはクテシオコス、もしくはクテシアルコスの息子であり、小アジア南西部の都市クニドスの出身であった。クニドスは当時ギリシア医学の中心地として知られていたが、クテシアスもまた医師であった。クテシアスは、ペルシア大王アルタクセルクセス2世にたいし、王弟の小キュロスが反乱を起こした時代(前401年)の人物である。彼は何らかの戦争に巻き込まれてペルシア帝国中央へ捕虜として連行された後、アルタクセルクセス2世と彼の母パリュサティスのもとで医師として働いた。17年間をペルシア宮廷で過ごし、おそらくは計略によって、ロドス経由でクニドス、そしてスパルタへと渡った。エーゲ海世界に戻った後、『ペルシア史』『インド史』『アジアの貢納について』題名不明の周遊記などを著した。


阿部拓児著「翻訳・注釈 フォティオス『文庫』におけるクテシアス『ペルシア史』摘要—キュロスからクセルクセスの治世まで (西洋古代史研究(2007),7: 17-36)」より

以上がクテーシアースの生涯です。しかしこの箇所の注には

むろん、このようなクテシアスの経歴には大小様々な異論が呈されているが、これについては稿を改めて論じるべきだろう。

とあるので、クテーシアースの生涯については確実なことは分からない、と受け止めておくべきなのでしょう。


さて、クテーシアースの書いた「ペルシア史」ですが、書いた本人がペルシアの宮廷に滞在していることや、本の中で、記録したことは自分が目撃したことかあるいはペルシア人から聞いたことだ、と本人が主張していることから、古代の文人・学者の中にはこの書物の内容を信じる人も多くいたようです。しかし、彼より500年ほどのちの文人プルータルコスは、この「ペルシア史」を真実と作り話が混ざったものと考えていたようです。彼はアルタクセルクセース2世の伝記を書く際に「ペルシア史」を利用していますが、その伝記にはクテーシアースの記述に対する批判的な見解が述べられています。たとえば、こんな記述があります。

しかしクテーシアースはたいだい著書の中に信ずることのできない途方もない話を到るところから集めて入れているけれども、この王や王妃や王大后や王子たちの侍医として長くいたのであるから、王の名前を知らずにいたとは考えられない。


プルータルコス著「アルタクセルクセース伝」1節 河野与一訳 より(ただし、旧漢字、旧かなづかいは、現代のものに改めました。)

これは「ペルシア史」には「途方もない話」も含まれているが真実の話も含まれている、というふうにプルータルコスは考えていたということでしょう。さらに「インド史」になると、クテーシアースが話を面白くしたのか、クテーシアースに話を伝えたペルシア人が話を面白くしたのか、両者がともどもそうしたのか知りませんが、片足だけの人種や、傘として使用できるほど大きな足の人種の話が含まれているそうです。

しかし、そういった記述の一方で、インドに象がいることを正確に記述しており、これはギリシア人として初めての記述だそうです。ギリシア人はアフリカに象がいることは知っていたのですが、インドに象がいることはそれまで知らなかったのでした。


さて、クテーシアースがまだペルシアの宮廷にいる時、アテーナイの将軍コノーンからの手紙を受け取るという出来事がありました。コノーンはペロポネーソス戦争の最後の海戦になったアイゴス・ポタモイの海戦でスパルタに負け、このままアテーナイに帰れば衆愚制になったアテーナイ政府によって重く罰せられると考え、キュプロスに亡命していました。そして彼はペルシアの力を借りてスパルタを負かすことを計画しました。その計画をペルシア王アルタクセルクセース2世に伝えるための手紙をクテーシアースに託したのでした。

コノーンはアイゴス ポタモイの海戦後キュプロスで日を過ごしていたが、安全な生活を好まず、海の上で風の変わるのを待っているように政局の変転を待っていた。ところで、自分の計画を書いて大王に手紙を送った。(中略)クテーシアースはその手紙を受け取ると、コノーンが書いた文句に添え書きをして、クテーシアースも海上の事柄には役に立つ人だからコノーンのところへ送るようにと付け加えたそうである。しかし、クテーシアースは、王が自身の考えでこの任務を自分に授けたのだと言っている。


プルータルコス著「アルタクセルクセース伝」21節 河野与一訳 より(ただし、旧漢字、旧かなづかいは、現代のものに改めました。)

クテーシアースがコノーンからの手紙に勝手に文を追加したかどうかは定かではありませんが、いずれにせよクテーシアースはキュプロスに向い、コノーンと会談しました。そしてこの会談によってコノーンの計画はアルタクセルクセース2世の受け入れるところとなりました。ペルシアに迎えられたコノーンは、クニドス沖の海戦でスパルタを撃破し、エーゲ海制海権をスパルタから奪ったのでした。


この海戦の結果は重大で、この海戦によってペルシアは再び小アジアギリシア人都市を支配下に収めることをスパルタをはじめとするギリシア諸都市に認めさせたのでした。もちろんその中にはクニドスも入っていました。

アルタクセルクセースはファルナバゾスとコノーンの力でクニドス付近の海戦(BC 394年)に勝ってスパルタの制海権を奪い、ギリシャ全体を屈服させた結果、アンタルキデースの講和と呼ばれる有名な講和を結ぶように主となってギリシャの諸市に斡旋した。このアンタルキダースはスパルタの人で・・・、アジアにあるギリシャの町とアジアに付属する島を全部スパルタ人が手放して王に所有させ貢物を献ずるように取決めた・・・


同上