神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

タソス(10):テアゲネース

 このBC 480年の古代オリンピックで、ボクシングで優勝したのがタソスの人テアゲネースでした。テアゲネースについては周藤芳幸氏の「物語 古代ギリシア人の歴史」のひとつの章に、テアゲネースの一代記の形で紹介されています。

 ですから、それをそのままここに引用すればここでの記述は間に合うのですが、それでは著作権的に問題でしょうし、私としても自分なりの紹介の仕方を探りたいので、なんとか丸写しはせずにやってみます。


 まず、その試合の様子ですが、どうも記録がなさそうなので、ホメーロスイーリアスから似たような場面をご紹介して、それに代えたいと思います。この場面での対戦者の一人は「拳闘にも心得のある、パノペウスの子のエペイオス」で、その相手は「エウリュアロスとて、神にも比(たぐ)う武夫(ますらお)」です。最初は競技者エペイオスの威嚇の言葉から始まります。

「・・・・憚(はばか)りながら私は無敵だ。(中略)
さればこう判然(はっきり)と言っておこう、
その通りに仕遂(しと)げられようが、文句なしに対手(あいて)の皮肉を破り、骨は摧(くだ)いてやるだろうから、此処に居合わす身内の者は、一緒にその儘(まま)待っているがいい、
私の腕に掛かった者を、いずれは運び出すことになろう。」


イーリアス 第23書」より

そして、試合が始まります。

さて両人は(中略)競技場の真中に進み出、面と対って腕を振り上げ、頑丈な手で ともども一時にぶつかり合った、
して激しく拳(こぶし)を振るって闘う、その顎(あぎと)からは恐ろしい歯咬(はがみ)の音が発ち、体中から隈なく汗が滴り流れた。
折から、勇ましいエペイオスは突如と躍りかかって、様子をうかがう対手の 頬桁(ほほげた)を撃つと、もはや長くは耐えていれずに、その儘どっと美事な四肢(てあし)を頽(くず)して倒れた。
(中略)が気性の広いエペイオスは、腕に抱えて起こしてやった。
その周りを親しい友らがとり囲んで、両脚を引き擦(ず)らせたまま、人々の集る中を連れていったが、
固まった血を口から吐き、首(こうべ)は片やに傾(かし)げたままで、
意識もなお あらぬ方(かた)なのを、連れてって 仲間の席に坐(すわ)らせ・・・・


イーリアス 第23書」より

テアゲネースの試合もこんなふうではなかったかと思います。彼はとにかく強かったのです。その4年後のオリンピックでは今度はパンクラティオンというレスリングのような競技で優勝しています。テアゲネースの生涯の優勝回数を、桜井万里子 橋場弦 編「古代オリンピック

では数百回と記し、日本語と英語のWikipediaのテアゲネースの項では1300回と記しています。

同時代の碑文によれば、彼は四大競技会だけでボクシング22回、パンクラティオン2回もの勝利をおさめ、うちオリンピックでの優勝はそれぞれ1回ずつであった。その他の競技会での数百回とも推測される勝利記録を含めて、通算22年間にわたる選手生活を送ってきたという。


桜井万里子 橋場弦 編「古代オリンピック」の「第Ⅳ章 変わりゆくオリンピック」の「2 残照のオリンピア:ローマ時代」井上秀太郎著 より

様々な競技会でテオゲネスはボクシングやパンクラチオンによる試合をし続けてきたが、連戦連勝で決して敗北することがなく、22年間も無敗であった。ネメア大祭とイストミア大祭では9回、ピュティア大祭では3回、オリンピア大祭では前480年にボクシングで、前476年にはパンクラチオンでそれぞれ優勝した。その内、ピュティア大祭における3回目の優勝では、テオゲネスがあまりに強すぎて挑戦者が現れず、戦うことなく優勝を飾った。四大祭全てにおいて優勝した者はペリオドニコス(周期の勝者)と呼ばれ、神々に近い存在とされて並外れた栄誉を授けられたが、テオゲネスこそは最強のペリオドニコスであった。


その並外れた偉業を讃え、オリンピアやデルフィ、故郷のタソス島に彼の彫刻が立てられ、その台座にはテオゲネスが戦った1300回の試合の詳細(無論、全てにおいて勝利を収めている)と、12行にも渡る彼を讃える賛歌が彫られており、今でもそれは現存している。


日本語版ウィキペディアの「テオゲネス」の項より

(なぜが、日本語版のウィキペディアでは「テオゲネス」となっていますが「テアゲネース」が正しいです。)


 この人はタソスでは由緒のあるヘーラクレース神殿の神官の息子でもありました。ヘーラクレースはもちろんギリシア神話の世界の豪勇無双の英雄です。そのことが彼をアスリートの道に進ませたのかどうかよく分かりませんが、ヘーラクレースの神官の子が無敗のアスリートだったというのはよく出来たお話です。彼がまだ9歳の子供の頃、広場から家まで神の真鍮の像を担いで運んだことがあった、という話も伝えられています。後には、彼の本当の父親はヘーラクレースである、といううわさも出てきたそうです。このヘーラクレース神殿は元々はフェニキア人の神メルカルトを祭ったものであることは「2.テュロスのヘーラクレース」でご紹介しました。


 さて、上の日本語版ウィキペディアにもあるように、タソス市民は彼の偉業を讃えて青銅製の彼の彫像を立てたのですが、テアゲネースの死後、この彫像が不思議な目に会います。タソス市民の中でテアゲネースに恨みがあった男が夜にテアゲネースの銅像の所にこっそりやってきて、この銅像を鞭で打ちすえるということがありました。この者は何回もこんなことをしていたのですが、ある夜、鞭で打った拍子にその銅像が彼の上に倒れてしまい、それが元でこの男は死んでしまいました。すると、この男の息子たちがテアアゲネースの銅像殺人罪で訴えたのです。古代ギリシアでは無生物に対しても殺人の罪に問うことが出来たようです。そしてその判決は国外追放でした。その判決に従ってテアゲネースの銅像は海中に捨てられました。
 それからというものタソスでは農産物の不作が続きました。そこで神意を尋ねるために使者をデルポイに送ったところ、デルポイの巫女は「追放されている者全てを帰還させるべし」と告げたのでした。そこでタソス市民は追放した者を帰国させたのですが、それでも不作は収まりません。再度デルポイに神意を伺ったところ、神託は「汝らは偉大なるテアゲネースを忘れている」と告げたのでした。しかし、そうは言われてもテアゲネースの銅像は海底深く沈んでいるので当時の技術では探し出すことも出来そうにありません。タソス人たちがどうしたものかと考えているところに、漁に出ていた漁師が網に引っかかったテアゲネースの銅像を持ち帰ってきたのでした。タソス人たちは大喜びでテアゲネースの銅像を広場に安置し、テアゲネースを神として崇拝することを決議したのでした。すると不作は今度こそ収まったということです。


 ヘーラクレース神殿の神官の子であったテアゲーネースはヘーラクレースのような豪勇の男となり、その競技の成績によってヘーラクレースの息子と呼ばれ、最終的には神とされたのでした。

タソス(9):戦時下の古代オリンピック

この回では、このクセルクセスがギリシア本土に侵攻した年(BC 480年)のオリンピックでボクシングで優勝したタソス人テアゲネースのことを書くつもりでいました。しかし、書こうとした時に「あれ、ギリシア本土が丸ごとペルシアの支配下にされるかどうかという、この危急存亡の時に、オリンピックなんか開催していたんだろうか?」という疑問が湧いてきました。(もちろん今のオリンピックではなく、いわゆる古代オリンピックです。オリュンピア祭典というほうがよいかもしれません)。この疑問を調べていくうちにいろいろ興味深いことが分かってきました。それで、今回はタソスから離れてこの時の古代オリンピックについてのよもやま話ご紹介します。

 まず私が疑問に思ったのは、オリュンピア祭典の間、各ポリスは休戦する慣わしだったということを聞いたことがあったからでした。

 開催に際して、さらに、一つだけ解決しなくてはならない問題があった。国家間の争いの絶えなかったギリシアにおいては、(中略)参加者が無事に開催地に行き着いて祭典に参加できるように、休戦協定を結ぶことが必要不可欠だったのである。(中略)
 オリンピックのための休戦はエケケイリアと呼ばれた。(中略)休戦期間ははじめ一カ月であったが、祭典の規模が大きくなり、参加国が増大し、遠方からの参加者も増えると、二カ月に延長され、最終的には三カ月以上となった。それは、参加者が祖国を出発してから、競技を終えて祖国に戻るのに必要とされた期間であった。


桜井万里子 橋場弦 編「古代オリンピック」の「第Ⅱ章 祭典と競技」の「1 休戦を運ぶ使節たち」師尾晶子著 より

 オリンピックだから休戦しようと言ってもそれはギリシア人同士の取り決めであって、ギリシア人ではないペルシア軍がそれに従うとも思えません。それでもオリンピックは開催されたのでしょうか? そこでヘーロドトスの「歴史」を調べ直してみたところ、次の記事を見つけました。

 スパルタがレオニダス麾下の部隊を先ず派遣したのは、この部隊を他の同盟諸国の眼前に曝すことによって彼らの出師を促すためであって、万一スパルタが逡巡するのを知った場合、彼らもまたペルシア側に加担する恐れがあったため、そのような事態を防ごうとしたものであった。というのもスパルタではカルネイアの祭が出師の妨げとなっていたために、祭の行事を終えた後、守備隊をスパルタに残し、総兵力を挙げて急遽救援にかけつける予定であったのである。そして他の同盟諸国もスパルタと相似た行動をとる意図であった。というのはオリュンピアの祭礼がこの事態と重なったためであったが、かくてギリシア諸国は、テルモピュライの合戦がかくも速やかに決するとは知らず、先遣部隊のみを送ったのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻7、206 から

ここでは、まずスパルタが自分の国の祭であるカルネイアの祭のために軍隊を派遣するのを躊躇することが出ています。このカルネイアの祭でも戦争をすることは憚られていたのでした。しかし、ペルシアの大軍が南下してくるというこの緊急事態にスパルタが軍を派遣しなければ他の諸国はペルシア側に寝返ってしまうと心配して、まずは先遣部隊として王レオーニダース率いる部隊だけを派遣したのでした。ところがあいにくこの年は4年に一度のオリュンピアの祭礼、つまり古代オリンピックの年に当っていました。カルネイアの祭が終るとオリュンピア祭が始まります。このため、同盟諸国も先遣部隊だけ送って、祭のあとに本隊を派遣することにしていた、というのです。
 彼らはテルモピュライという狭い峠でペルシア軍の侵攻を阻止しようとしたのですが、そもそもそれはやがて本隊がやってくるという前提の上でのことだったのです。しかし、意外に早くペルシア軍がやってきて、本隊が到着する前に戦いが始まってしまったために、スパルタと若干の国を除く同盟諸国の軍隊は撤退し、スパルタの300名の兵士(ただしこれはスパルタ市民の数であって、彼らをサポートする従属民は人数に入っていません)はスパルタ王レオーニダースと共に玉砕したのでした。
 つまり、このような非常事態であってもオリンピックは開催されていたのでした。それほど古代ギリシア人にとってオリンピック(=オリュンピア祭礼)は大切なものなのだったのだ、と私は再認識しました。このオリンピックがなければ、スパルタの精鋭300名も玉砕することはなかったでしょう。私たちにとってなかなか想像しづらいのは、古代オリンピックがオリュンピアという聖地にあるゼウス神殿における神事であり、当時のギリシア人がその神事をどれほど大切に思っていたか、ということです。


 ここでオリュンピアとテルモピュライの位置を下に示します。また、オリュンピア祭礼を取り仕切っていた近隣のエーリスの位置も示しておきます。

 現代のオリンピックとは異なり、古代のオリンピックはいつもオリュンピアという場所で行われていました。上の地図を見ると、いろいろなことを感じます。まず、ペルシア軍がかなり南下しているにも関わらず、オリンピックが開催された、ということ。2番目に、ペルシア支配下にあるタソスにもオリンピック開催の案内が伝わった、ということ。3番目に、ペルシア支配下のタソスにいるテアゲネースが、ペルシアの支配下にないオリュンピアへ問題なく旅することが出来た、ということ、です。


 オリンピックの開催は、通信手段が貧弱な古代ギリシアにおいては以下のようにして各国(=各都市)に伝えられました。

 さて、主催国からの開催の通知はどのように行なわれたのだろうか。現在のようにさまざまな通信手段の存在しなかった古代には、使節を各地に派遣するという方法がとられた。オリンピックの開催を告げる使節は、休戦を告げる使節でもあることから、とくにスポンドフォロイ(休戦運び人)と呼ばれた。使節はエリス市民の間から三人が選出され、随行者とともにギリシア各地をまわった。(中略)
 さて、使節たちが到着し、オリンピックの開催日が伝えられ、休戦が宣言されると、各ポリスは順次休戦期間に入った。町には喝采があふれ、使節は客人としてポリスの公式の宴に招待された。


桜井万里子 橋場弦 編「古代オリンピック」の「第Ⅱ章 祭典と競技」の「1 休戦を運ぶ使節たち」師尾晶子著 より

 タソス出身のテアゲネースがオリンピックに出場出来たことから推論して、このオリンピック開催を告げる使節はペルシア占領下のタソスにも問題なく行くことが出来たようです。古代はこういう面ではまだおおらかというか、後の時代の卑劣さを免れているように感じて、私はほっとします。同様にペルシア占領下のタソスからボクシング選手テアゲネースがオリュンピアに旅するのも、そして大会後に帰国するのも問題はなかったのでした。


 さて、上でお話したテルモピュライの戦いがペルシア側の勝利に終ったのち、ギリシアアルカディア地方の人間が数名、ペルシア側に投降してきました。彼らはペルシア王クセルクセースの前に曳き出され、訊問を受けることになりましたが、その折のことです。ペルシア人の訊問官は、ギリシア軍が今何をしているのか、を尋ねました。そのギリシア人たちの返答は、今、オリンピックを観戦している、というものでした。この言葉から推論すると、オリュンピアには参加選手だけが行ったのではなく、観戦しようとする人々も向ったようです。ギリシアの危急存亡の時にです。それを聞いたペルシア人たちは、さぞビックリしたことでしょう。

 折から少数のアルカディア人が、食糧に事欠き、何か職にありつこうとして、ペルシア陣営に脱走してきた。ペルシア人は彼らを王の面前に曳き出し、ギリシア軍の行動について聞き訊そうとした。この質問は、一人のペルシア人が一同に代って問うたものであったが、脱走者たちは、ギリシア人はいまオリュンピア祭を祝っているところで、体育や馬の競技を観覧している、と答えた。


ヘロドトス著「歴史」巻8、26 から

 このあと、アテーナイでは、市域を無人にして、全てを海戦で決する作戦に打って出る決定を下したために、疎開が始まり、男たちは艦船に乗組んでサラミース沖に待機し、家族は近隣の島々やペロポネーソス半島の都市に避難させてそれは大変な大騒ぎになるのですが・・・・。

タソス(8):大軍の通過

 タソスを占領したフェニキアの艦隊はその後西へアテーナイを目指して進みましたが、途中で嵐にあって艦船や兵士の多数を失ったため、遠征を中止して撤収しました。その後BC 490年に再度、遠征軍が組織されましたが、前回の嵐に懲りて今度はエーゲ海北岸を避け、エーゲ海の真ん中を島伝いに進むことにしました。そのためタソスはその道筋から外れることになり、影響はありませんでした。この時の遠征軍はアテーナイ近くのマラトーンに上陸したところをアテーナイ軍に破られて撤退します。
 その10年後、新しく即位したペルシア王クセルクセースは、支配下の諸民族に号令をかけ、さらに大規模な軍勢を組織してまたもやギリシアに攻め込みました。今回は軍隊を将軍に任せるのではなく、王自ら率いたのでした。今回の軍隊も陸軍と海軍の両方から成っていましたが、これらの遠征軍は最初の遠征と同じエーゲ海北岸を西に進むコースを選択しました。その進路上にある町々はこの大規模な軍隊に食事を提供することを強いられました。そして要求されたのはとてつもない高レベルのものでした。ヘーロドトスは、タソスの負担について説明しています。

 遠征軍を迎えクセルクセス王の食事の接待に当ったギリシア人の蒙った苦難は悲惨を極めたもので、そのために住み馴れた家屋敷も離れねばならぬほどであったが、例えばタソス人の場合、彼らが本土にある自国の諸都市のためにクセルクセス軍を受け入れ食事を供した後、タソスで一、二を争う名士でこの接待の役に選ばれていたオルゲウスの子アンティパトロスが、食事饗応に支出した金額が銀四百タラントンに上ったと報告しているところからもその実情が察せられる。


ヘロドトス著「歴史」巻7、118 から

タソスの名士アンティパトロスが負担した「銀四百タラントン」というのはどのくらいの金額でしょうか? 「タラントン」という単位は元々重さの単位で26kg程度のことをいうそうです。しかし金額の単位としても用いられ、その重さの銀の価値を表していました。ここでは「銀四百タラントン」とあるので、そのまま金額としての400タラントンと考えてかまわないでしょう。さて、ヘーロドトスは別の箇所でタソスの金鉱などによる年間の収入が200タラントンであったと記しているので、400タラントンというのはタソスの歳入の2倍に当ると考えられます。また、周藤芳幸著「物語 古代ギリシア人の歴史」

によれば、1ムナという金額がBC 5世紀末のアテーナイでは熟練した職人の100日分の報酬に当るそうです。そして60ムナが1タラントンだそうです。すると、1タラントンは熟練した職人の6,000日分の収入になるわけで、これは実に16年分の収入になるわけです。ここから400タラントンがとてつもない金額であることが想像できます。

 他の町々においても、接待に当った責任者が報告している支出額は右と相似たものである。それも当然のことで、饗応のことはずっと前から予告されており、また住民たちはそれを重大に考えていたから、接待はおよそ次のようなふうに行われたのである。
 市民たちはクセルクセスの通過を諸方に触れて廻る役人からそのことを聞き知ると、町にある穀物を皆に分配し、市民は一人残らず幾カ月もかけて小麦と大麦を粉にひく。一方ではまた軍隊受入れのために、できるだけ上等の家畜を高価な代金を払って入手し飼育するとともに、陸棲と水棲とを問わずさまざまの鳥類を檻や池で養ったのである。また金銀製の酒盃や混酒鉢、その他食卓に用いる什器一切をととのえたのである。ただしこれらの什器は王とその陪食者たちだけのために作られたもので、軍隊一般には食糧にあてる物資だけが用意された。軍勢が到着すると、クセルクセスの宿営所にあてる天幕がすでに設けられているのが常で、一般の将兵は露天で野営したのである。食事の時刻になると、もてなす側は天手古舞いをするが、もてなされる方は鱈腹平らげるとその場で一夜を明かし、翌日になると天幕を畳み、持ち運べる什器はことごとく携え、後には一物も残さず綺麗にさらいとって立ち去るのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻7、119 から

「持ち運べる什器はことごとく携え、後には一物も残さず綺麗にさらいとって立ち去るのであった」とは、また何とむごいことでしょう。タソスにとってこの軍隊の通過はとんでもない災難でした。

タソス(7):ペルシアの支配

BC 498年、小アジアに位置するギリシア人の諸都市、いわゆるイオーニア地方と、その北にあるアイオリス地方はペルシア王国の支配に対して反乱を起しました。これが後世、イオーニアの反乱と呼ばれることになる事件です。イオーニア地方やアイオリス地方から離れていたタソスには、当初、この反乱の影響はありませんでした。ギリシア人の中でもイオーニア族に属するエレトリアとアテーナイはこの反乱に援軍の艦隊を派遣しましたが、同じイオーニア族であってもタソスは援軍を派遣することはありませんでした。この反乱はBC 494年にはほぼ終息に向かい、反乱の中心であったミーレートスがペルシア軍によって陥落します。ところが、この時になって急にタソスはこの反乱に巻き込まれてしまいます。それにはヒスティアイオスという人物が関係していました。 

 ヒスティアイオスは、かつてミーレートスの僭主の地位にあり、その後、ペルシア王ダーレイオスのお気に入りとなってペルシア王国の首都スーサで暮らしていたのですが、ある時スーサでの暮らしに飽きて、ミーレートスに反乱を起させたのでした。そして自身は、スーサを脱出し、この反乱に参加しようとしたのですが、ミーレートス人に拒否されてしまいました。すると彼は海賊のようなことを始め、あろうことかギリシアの艦船を襲うようになったのでした。


その後ヒスティアイオスは、ペルシアとの戦争で国力が疲弊したキオスを占領し、その次にタソスを攻略したのでした。タソスはペルシアの味方をしていたわけでもないので、ヒスティアイオスがタソスを攻める大義名分はまったくありませんでした。おそらくヒスティアイオスは軍資金に充てるためにタソスの金鉱を手に入れたかったのでしょう。ギリシアもペルシアも関係なく、ただ自分の勢力を拡大することしか考えていないようなヒスティアイオスによってタソスは包囲されてしまいます。

キオスを平定したのち、ヒスティアイオスイオニア人およびアイオリス人多数を率いてタソス島を攻めた。ところがタソスを攻囲中のヒスティアイオスの許へ、フェニキア軍がミレトスを出航し、イオニアの他の諸市の攻撃に発進したという情報がもたらされた。右の報に接したヒスティアイオスはタソスを未攻略のまま放置し、自ら全軍を率いてレスボスへ急行した。


ヘロドトス著「歴史」巻6、28 から

海の民ではなかったペルシアではフェニキアがペルシアの海軍の主力を担っていました。そのフェニキア海軍がミーレートスを出航し、イオーニアの他の諸市の攻撃に発進したのでした。その情報を耳にしたヒスティアイオスはレスボス島を守るためにタソスの包囲を解きました。彼の配下の兵の多くがレスボス人だったので、レスボスをペルシアから守ろうとしたのでしょう。ところがレスボスに到着した彼の軍隊は糧食が不足していました。レスボス島から徴発するだけでは足りず、対岸の大陸側にも穀物の徴発のために渡海しました。ところがそこには、当時たまたまペルシア軍の大将ハルバコスが軍を率いて駐屯しておりました。彼の軍隊はヒスティアイオスが上陸したところを襲って戦いになりました。戦いは互角で長時間続いたのですがついにヒスティアイオス側が敗走しヒスティアイオスは逃走中のところを捕えられ、殺されました。


これでタソスにとっては一難去った感じでしたが、やがてペルシア軍が侵攻してきます。BC 492年のことでした。タソスは最初から抵抗しても無駄だと思ったのでしょう、それに対して反撃の姿勢すら示しませんでした。タソスはペルシアの(おそらくはフェニキアの)海軍によって占領されます。

 さて春になって他の諸将は大王によって司令官の職を解かれたが、ひとりゴブリュアスの子マルドニオスは海陸の大軍を率いて沿海地方に下った。(中略)マルドニオスはこれらの軍勢を率いてキリキアに着くと、自身は乗船して艦隊とともに発進し、陸上部隊は他の指揮官がこれを率いてヘレスポントスに向った。(中略)ここで海陸の大軍の集結を終ると、ペルシア軍は海路ヘレスポントスを渡り、ヨーロッパに入って進撃したが、目指すところはエレトリアアテナイであった。
 もっともこの二都市は、ペルシア側にとっては単にギリシア遠征の口実に過ぎず、彼らはできる限り多くのギリシア都市を征服する心組みであったから、反撃の態勢すら示さなかったタソスを海軍によって征服するとともに、陸上部隊によってマケドニア人を討ち、すでにペルシアの隷属下にある民族にこれを加えたのである。


ヘロドトス著「歴史」巻6、43~44 から

 こうしてタソスはペルシアの支配下に入りました。翌年、タソスは近くの都市から、ペルシアへの反乱の兆候があると、告げ口されてしまいます。

その翌る年ダレイオスは先ず、タソスが謀反を企てているという隣国からの訴えがあったので、タソスに使者を送り、城壁を取り壊しその艦船をアブデラへ廻すように命じた。事実タソス人は、かつてミレトス人ヒスティアイオスの包囲攻撃を蒙った経験に鑑みて、莫大な収入のあるのを幸い国富を利して軍船の建造と従来より強固な城壁の築営に当っていたのであった。この収入源は本土にあるタソスの領土および鉱山の二つであった。スカプテ・ヒュレの金鉱から平均八十タラントンの年産があり、タソス島内の金鉱の産出額はこれよりは少なかったが、それでも相当の額に上ったので、タソスでは穀物税は徴収しなかったにもかかわらず、その年収は本土および鉱山からの収入を合せると平均二百タラントン、最も多いときには三百タラントンにも達したのである。(中略)
 タソス人はペルシア王の命に基き城壁をとり壊すとともに、全船舶をアブデーラへ回航したのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、46~48 から

タソスはペルシアの嫌疑をはらすために、その指示に従ったのでした。城壁と軍船がなければ、もうタソスにはペルシアに唯々諾々と従うしか道が残されていませんでした。

タソス(6):150年の空白

詩人アルキロコスが死んだのがBC 645年頃と推定されています。タソスについて次に書くことが出来るネタが、ミーレートス人ヒスティアイオスによるBC 493年のタソス攻撃ですが、この間、約150年もあります。ここを何も書かずに次に進むのは何か気が引けます。とは言っても、私にはネタがないですし、どうしたものかと思います。


このことに関連して今回気づいたのはアルキロコスの活躍した時代が非常に早いということです。レスボス島のミュティレーネーの有名な抒情詩人、サッポーが生まれたのはBC 630年頃とされ、同じくミュティレーネーアルカイオスが生まれたのはBC 620年頃、ということなので、二人ともアルキロコスが死んでからこの世に生を受けたのでした。


(サッポーとアルカイオス)


ミュティレーネーサッポーアルカイオスの時代というのは、同時にミュティレーネーの政治家ピッタコスの時代でした。ピッタコスギリシア七賢人の一人に数えられる人物で、この時代は七賢人の時代と考えてもよいでしょう。この七賢人の中にはミーレートスタレースやアテーナイのソローンも含まれますが、タソス出身の人物は含まれていません。この頃はこういう立法者が活躍した時代だったので、タソスにもそういう人物が現われていたのかもしれません。


この150年間にあったであろうことのひとつは、タソスがその領土を、北の大陸側、つまりトラーキア側に拡げたことです。もちろん、それは先住のトラーキア人を追いだしてのことでしょう。タソスにとって幸運なことにそこにも金鉱が見つかりました。それは今まで島で掘っていた金鉱よりもさらに豊かな金鉱でした。こうして2つの金鉱を得たことがタソスを裕福な都市にします。そのほかにタソスは良質の大理石を産し、また、ワインの製造でも有名でした。それで記録はないのですが、この150年間、タソスは繁栄をしていたことが推測されます。


七賢人の一人、ミーレートスタレースは「最初の科学者」とでも言うべき人物ですが、彼は日蝕を予言しています。それはBC 585年のことでした。この頃になってやっと科学的に自然現象を考える人々が現われたのですから、それより60年以上前のBC 648年の日蝕で、アルキロコスが驚愕してこの世の秩序を信じられなくなったとしても無理のないことでした。


七賢人の活躍した時代の終わりのほうにはリュディア王国がペルシアによって滅ぼされたBC 546年のサルディスの陥落という事件が起きます。これは小アジアのイオーニア都市には大きな出来事でしたが、タソスにはそれほど影響はなかったと思います。それでもこの時に小アジアを逃れた誰かが、タソスまでやってきたかもしれません。そして、タソスの人はその亡命者にこう語りかけたかもしれません。

そも あなたは何人にて
いずこより見えしか
お歳(とし)はいくつぞ 善(よ)き客人(まろうど)よ
して かのメヂア人の来りしとき
幾歳なりしや


山本光雄 「ギリシア・ローマ哲学者物語」 前編 第三夜 クセノパネス より

これは当時の哲学者にして詩人のクセノパネースの詩の一部です。クセノパネースは小アジアコロポーンの人でしたが、ペルシアが祖国を占領するにおよんで、祖国を脱してイタリアに亡命したのでした。上の引用で「かのメヂア人」と言っているのはペルシア人のことです。そして「かのメヂア人の来りしとき」というのはBC 546年のサルディス陥落のことを指しています。クセノパネースはその放浪の旅においてタソスを訪れることはおそらくなかったと思いますが、誰か別の亡命者がタソスに来たかもしれません。


このペルシアの支配がタソスにまで及んでくるのは、さらに時代の下ったBC 492年になってからです。

タソス(5):アルキロコス(2)

前にも述べましたように、アルキロコスの生涯についての伝承はほとんど信憑性がないとのことですが、それでも彼の生涯をたどる努力をしてみましょう。


彼は、タソスの植民市創立者であったパロス人の貴族テレシクレースの子としてパロス島で生まれました。母親の名前はエニポーといい奴隷であったといいます。しかし英語版Wikipediaのアルキロコスの項では、これは彼の詩の誤読から生れた伝承である、としてその信憑性を疑っています。


やがて父親はデルポイの神託に従ってタソス島へ植民団を率いて植民しましたがアルキロコスパロス島に残りました。その後アルキロコスパロス島日蝕を体験しました。アルキロコス日蝕に非常な驚愕を覚え、そのことを以下のように詩にしています。

物事には、予期はずれのことも、誓って不可能だと言えることも、
不思議なこともないのだ。オリュンポスの神々の父ゼウスが、
輝く太陽の光を隠して、真昼から夜にしてしまったのだから。
そして人間どもは恐怖で青ざめたのであった。
この時から、人々の間で万事が信じがたく、また何事でも
予期されるのだ。もはや諸君のうち誰一人として驚いてはならぬ。
たとえ諸君の眼前で獣どもが海豚に代って海の牧場に移り住み、
そして海の怒涛の方が、陸地よりも気に入ってしまい、
また海豚が山に潜るのを好きになったとしても。    (74D)


アルキロコスについて: ギリシア植民時代の詩人」藤縄謙三著 より

天文学によれば、これはBC 648年4月6日のことだそうです。


パロス島アルキロコスに関わるひとつの事件がありました。彼はパロス人のリュカンベスと、リュカンベスの娘ネオブーレーとの結婚について合意を得ていたのですが、後になって理由は定かではないのですが、リュカンベスは婚約を破棄しました。そこでアルキロコスはこの父娘を罵倒する詩を作り、それが原因でネオブーレーとその妹は首を吊って死んでしまったというのです。
 この話はエペソスの悪口詩人ヒッポナクスについて伝承されている話とよく似ているので、どうも本当らしくありません。リュカンベスを非難する詩は残っているので、リュカンベスとの間にトラブルがあったことは事実のようですが、娘が首を吊ったというのはたぶん後世の作り事でしょう。それどころか英語版Wikipediaのアルキロコスの項には「最近の若干の学者は、リュカンベスとその娘は、実際には詩人の同時代人ではなく、伝統的な娯楽における架空の人物であると信じている。」とあります。あるいは、やはりリュカンベスは現実にいたパロスの有力者であり、アルキロコスは自分の母親の出自が低いことの埋合せとして、この有力者と結びつくことで自分の社会的地位を上げようとしたが、それに結局失敗したのだ、と論じる学者もいるとのことです。こうなると何が真実なのか見当がつきません。


一般には、上記の事件がきっかけとなってパロス島を離れタソスに移住した、というふうに言われています。彼は海賊になったとか傭兵になったとかいう伝承もありますが、本当かどうか分かりません。


アルキロコスはタソス島を次のように歌っています。

この島は原生林に覆われて、
驢馬の背のように立っている。


アルキロコスについて: ギリシア植民時代の詩人」藤縄謙三著 より

エーゲ海の島々のように乾燥しておらず、どちらかというと日本のように木々が鬱蒼としているのがアルキロコスには印象的だったのでしょう。



(タソスのアゴラの遺跡)

タソスに移住してみたものの彼はそこでも不満でした。自分の詩の中で「タソスなる三重に悲痛なポリス」と言い「すべてのギリシア人の苦悩はタソスで集まった」と表現しています。それでも彼はタソスのために兵士として敵と戦ったのでした。トラーキア人の一部族サイオイ族との戦いの際に楯を捨てて逃げて来たことは「3:タソス植民」で紹介しました。また、トラーキアとの戦争の予感を海の波に譬えて以下のように歌っています。

グラウコスよ、見よ。すでに海は波浪で逆巻き、
ギュライの頂上には雲が立つ。これは嵐の前兆。
予期せざる所から恐怖が迫り来る。


アルキロコスについて: ギリシア植民時代の詩人」藤縄謙三著 より

ここで呼びかけられているグラウコスというのは当時のアルキロコスの親しい友人でした。このグラウコスを記念した碑がタソス島で出土しています。


やがてアルキロコスはタソス島を去り、スパルタを訪れました。しかし、楯を捨てて逃げたことを自慢して詩に歌うような人間は、スパルタ人にとっては卑怯者と思われ、アルキロコスの他の詩も不道徳なものとされました。そのため彼はスパルタを追放されます。結局彼は故郷のパロス島に戻り、そこで隣の島であるナクソス島との戦いにおいて戦死した、ということです。アルキロコスを倒したのはコラクスという名前のナクソスの戦士でしたが、彼がその後デルポイへ神託をもらいに出かけたところ、デルポイの巫女は神アポローンの言葉として「汝はムーサ(芸術の女神)のしもべを殺した。神殿から立ち去れ」と告げた、と伝えられています。

  • アルキロコスから話は外れますが、この伝承はプルータルコスなど後世の著作家の興味を惹きました。というのはコラクスは自分の国の防衛のために戦ったのであり、古代ギリシアの常識としてはそれは正当な義務であり、神の叱責を蒙るべき事柄ではなかったからです。


アルキロコスの詩は、吟遊詩人たちによって宴会の場などで歌われるようになり、故郷パロス島ではホメーロスに匹敵するほど偉大な詩人と讃えられました。そして、BC 3世紀にはパロス島アルキロコスの聖域アルキロケイオンが設立され、彼を崇拝する者たちが、アポローンディオニューソス、ムーサたちと一緒にアルキロコスに犠牲を捧げたのでした。

タソス(4):アルキロコス(1)

タソス市の建設者であったテレシクレースにはアルキロコスという名の息子がいました。彼はのちに古代ギリシアで有名な詩人になりました。もっとも彼はテレクシレースの正妻の子ではなかったようです。彼の生涯に関する伝承はいくつかありますが、英語版のWikipediaのアルキロコスの項の記述によれば、どれもほとんど信憑性がないそうです。


アルキロコス

とはいえ、このブログでは信憑性をあまり気にせず伝承をご紹介するのが目的ですので、それらを紹介していきます。今回、アルキロコスのことを調べるにあたり藤縄謙三氏(京都大学名誉教授 2000年没、西洋古典学者)の「アルキロコスについて: ギリシア植民時代の詩人」という論説をネット上で見つけました。アルキロコスの詩の断片を多く収録し、アルキロコスに関する情報満載の論説で、大変参考になりました。こんなものを無料で読めることに感謝しております。まずは、そこからアルキロコスがムーサたち(芸術の女神たち。英語での発音はミューズ。ミュージックやミュージアムの語源となる)に出会って詩人になったいきさつを語った伝説を紹介します。


アルキロコスが若かった頃、彼はパロス島で牛の面倒を見て暮らしをしていました。ある日父親テレシクレースの言いつけで牝牛を一頭町に連れていって売ることになりました。彼は早起きして、その牝牛を町へ引いて行きました。その途中で彼は、数名の女性に出会いました。彼は彼女たちは仕事を終えて町へ戻るのだろうと考えて、近づいて話かけ、彼女たちも笑いながら彼に応対しました。ある女性が「その牛を売りに連れてゆくのか」と尋ねました。アルキロコスがその通りだと答えると、「私たちがその牛の対価として相当なものをあなたに支払いますよ」と言うのでした。アルキロコスがその意味を図りかねていると突然、彼女たちも消え、引いていた牝牛も一緒に消えてしまいました。そしてアルキロコスのは足もとには竪琴(リュラー)が置いてあったのでした。しばらく彼はびっくりしたまま佇んでいたのですが、やがて落ち着くと、あの女性たちはムーサたちで、自分に竪琴を授け給うたのだと悟りました。彼は竪琴を拾い上げて、事件を父に報告したのでした。


この伝説はパロス島のアルキロケイオンというBC 3世紀の遺跡で見つかった碑文に書かれていました。アルキロケイオンというのはアルキロコスを神として祭る神殿のことです。アルキロコスは後世のギリシアで神として崇拝されたのでした。


抒情詩の創始者とも言われるアルキロコスですが、抒情詩という言葉から連想される優美なもの、感傷的なものから、彼の詩は遠く離れているようです。今までこのブログで取り上げてきたミュティレーネーのアルカイオスもそうですし、エペソスのヒッポナクスもそうですが、抒情詩人という語感からはかけ離れた詩人が古代ギリシアには多かったみたいです。ところでアルキロコスの詩で現代まで完全に伝わっているものは1つもないそうです。


彼はある断片で自分のことをこう語っています。

われこそはエニュアリオス(軍神)さまの従卒のいちにんにして
また 詩歌女神(ムウサ)がたの麗わしい賜ものにも長(た)けたるもの(ウェスト、断片一)

と歌ったのは、ヘシオドスに間をおかず姿を現わすアルキロコスであった。


ヘシオドス「神統記」 廣川洋一訳 の解説より

アルキロコスは詩人でありながら戦士でもあったのです。次の詩は英語版のWikipediaのアルキロコスの項に引用されていたものの拙訳です。私には戦場を歌った詩のように思えます。

我が魂、我が魂、癒しがたい不幸によってかき乱された全てのものよ、
今はこちらから、そして今はあちらからと、お前に殺到する多くの敵に
耐え、持ちこたえ、正面に迎えよ、間近な衝突の全てに耐えよ。
ためらうな。そしてお前は勝つべきだ。おおっぴらに勝ち誇ることもなく、
あるいは負けて、家の埋みの中で自分を歎きの中に投げ込むこともなく。
度を越さずに、楽しい物事には喜び、つらいときは悲しめ。
男の人生を支配するリズムを理解せよ。

最後の「リズム」というのは、人生の浮き沈みには周期があると考え、それを一種のリズムと捉えているのだそうです。次の詩にもそのリズムのことが歌われているようです。

・・・・かかる惨事は時の移るとともに、
別の人を襲いゆくもの。今は吾らの襲われる順番なので、
 それで吾らは血まみれの傷口を大声で嘆いているのだ。
だが、すぐにも他の人々の所へ移ってゆくだろう。
 さあ諸君、早く女々しい苦痛を追い払って耐えるのだ。


アルキロコスについて: ギリシア植民時代の詩人」藤縄謙三著 より