神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

タソス(6):150年の空白

詩人アルキロコスが死んだのがBC 645年頃と推定されています。タソスについて次に書くことが出来るネタが、ミーレートス人ヒスティアイオスによるBC 493年のタソス攻撃ですが、この間、約150年もあります。ここを何も書かずに次に進むのは何か気が引けます。とは言っても、私にはネタがないですし、どうしたものかと思います。


このことに関連して今回気づいたのはアルキロコスの活躍した時代が非常に早いということです。レスボス島のミュティレーネーの有名な抒情詩人、サッポーが生まれたのはBC 630年頃とされ、同じくミュティレーネーアルカイオスが生まれたのはBC 620年頃、ということなので、二人ともアルキロコスが死んでからこの世に生を受けたのでした。


(サッポーとアルカイオス)


ミュティレーネーサッポーアルカイオスの時代というのは、同時にミュティレーネーの政治家ピッタコスの時代でした。ピッタコスギリシア七賢人の一人に数えられる人物で、この時代は七賢人の時代と考えてもよいでしょう。この七賢人の中にはミーレートスタレースやアテーナイのソローンも含まれますが、タソス出身の人物は含まれていません。この頃はこういう立法者が活躍した時代だったので、タソスにもそういう人物が現われていたのかもしれません。


この150年間にあったであろうことのひとつは、タソスがその領土を、北の大陸側、つまりトラーキア側に拡げたことです。もちろん、それは先住のトラーキア人を追いだしてのことでしょう。タソスにとって幸運なことにそこにも金鉱が見つかりました。それは今まで島で掘っていた金鉱よりもさらに豊かな金鉱でした。こうして2つの金鉱を得たことがタソスを裕福な都市にします。そのほかにタソスは良質の大理石を産し、また、ワインの製造でも有名でした。それで記録はないのですが、この150年間、タソスは繁栄をしていたことが推測されます。


七賢人の一人、ミーレートスタレースは「最初の科学者」とでも言うべき人物ですが、彼は日蝕を予言しています。それはBC 585年のことでした。この頃になってやっと科学的に自然現象を考える人々が現われたのですから、それより60年以上前のBC 648年の日蝕で、アルキロコスが驚愕してこの世の秩序を信じられなくなったとしても無理のないことでした。


七賢人の活躍した時代の終わりのほうにはリュディア王国がペルシアによって滅ぼされたBC 546年のサルディスの陥落という事件が起きます。これは小アジアのイオーニア都市には大きな出来事でしたが、タソスにはそれほど影響はなかったと思います。それでもこの時に小アジアを逃れた誰かが、タソスまでやってきたかもしれません。そして、タソスの人はその亡命者にこう語りかけたかもしれません。

そも あなたは何人にて
いずこより見えしか
お歳(とし)はいくつぞ 善(よ)き客人(まろうど)よ
して かのメヂア人の来りしとき
幾歳なりしや


山本光雄 「ギリシア・ローマ哲学者物語」 前編 第三夜 クセノパネス より

これは当時の哲学者にして詩人のクセノパネースの詩の一部です。クセノパネースは小アジアコロポーンの人でしたが、ペルシアが祖国を占領するにおよんで、祖国を脱してイタリアに亡命したのでした。上の引用で「かのメヂア人」と言っているのはペルシア人のことです。そして「かのメヂア人の来りしとき」というのはBC 546年のサルディス陥落のことを指しています。クセノパネースはその放浪の旅においてタソスを訪れることはおそらくなかったと思いますが、誰か別の亡命者がタソスに来たかもしれません。


このペルシアの支配がタソスにまで及んでくるのは、さらに時代の下ったBC 492年になってからです。