神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

タソス(8):大軍の通過

 タソスを占領したフェニキアの艦隊はその後西へアテーナイを目指して進みましたが、途中で嵐にあって艦船や兵士の多数を失ったため、遠征を中止して撤収しました。その後BC 490年に再度、遠征軍が組織されましたが、前回の嵐に懲りて今度はエーゲ海北岸を避け、エーゲ海の真ん中を島伝いに進むことにしました。そのためタソスはその道筋から外れることになり、影響はありませんでした。この時の遠征軍はアテーナイ近くのマラトーンに上陸したところをアテーナイ軍に破られて撤退します。
 その10年後、新しく即位したペルシア王クセルクセースは、支配下の諸民族に号令をかけ、さらに大規模な軍勢を組織してまたもやギリシアに攻め込みました。今回は軍隊を将軍に任せるのではなく、王自ら率いたのでした。今回の軍隊も陸軍と海軍の両方から成っていましたが、これらの遠征軍は最初の遠征と同じエーゲ海北岸を西に進むコースを選択しました。その進路上にある町々はこの大規模な軍隊に食事を提供することを強いられました。そして要求されたのはとてつもない高レベルのものでした。ヘーロドトスは、タソスの負担について説明しています。

 遠征軍を迎えクセルクセス王の食事の接待に当ったギリシア人の蒙った苦難は悲惨を極めたもので、そのために住み馴れた家屋敷も離れねばならぬほどであったが、例えばタソス人の場合、彼らが本土にある自国の諸都市のためにクセルクセス軍を受け入れ食事を供した後、タソスで一、二を争う名士でこの接待の役に選ばれていたオルゲウスの子アンティパトロスが、食事饗応に支出した金額が銀四百タラントンに上ったと報告しているところからもその実情が察せられる。


ヘロドトス著「歴史」巻7、118 から

タソスの名士アンティパトロスが負担した「銀四百タラントン」というのはどのくらいの金額でしょうか? 「タラントン」という単位は元々重さの単位で26kg程度のことをいうそうです。しかし金額の単位としても用いられ、その重さの銀の価値を表していました。ここでは「銀四百タラントン」とあるので、そのまま金額としての400タラントンと考えてかまわないでしょう。さて、ヘーロドトスは別の箇所でタソスの金鉱などによる年間の収入が200タラントンであったと記しているので、400タラントンというのはタソスの歳入の2倍に当ると考えられます。また、周藤芳幸著「物語 古代ギリシア人の歴史」

によれば、1ムナという金額がBC 5世紀末のアテーナイでは熟練した職人の100日分の報酬に当るそうです。そして60ムナが1タラントンだそうです。すると、1タラントンは熟練した職人の6,000日分の収入になるわけで、これは実に16年分の収入になるわけです。ここから400タラントンがとてつもない金額であることが想像できます。

 他の町々においても、接待に当った責任者が報告している支出額は右と相似たものである。それも当然のことで、饗応のことはずっと前から予告されており、また住民たちはそれを重大に考えていたから、接待はおよそ次のようなふうに行われたのである。
 市民たちはクセルクセスの通過を諸方に触れて廻る役人からそのことを聞き知ると、町にある穀物を皆に分配し、市民は一人残らず幾カ月もかけて小麦と大麦を粉にひく。一方ではまた軍隊受入れのために、できるだけ上等の家畜を高価な代金を払って入手し飼育するとともに、陸棲と水棲とを問わずさまざまの鳥類を檻や池で養ったのである。また金銀製の酒盃や混酒鉢、その他食卓に用いる什器一切をととのえたのである。ただしこれらの什器は王とその陪食者たちだけのために作られたもので、軍隊一般には食糧にあてる物資だけが用意された。軍勢が到着すると、クセルクセスの宿営所にあてる天幕がすでに設けられているのが常で、一般の将兵は露天で野営したのである。食事の時刻になると、もてなす側は天手古舞いをするが、もてなされる方は鱈腹平らげるとその場で一夜を明かし、翌日になると天幕を畳み、持ち運べる什器はことごとく携え、後には一物も残さず綺麗にさらいとって立ち去るのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻7、119 から

「持ち運べる什器はことごとく携え、後には一物も残さず綺麗にさらいとって立ち去るのであった」とは、また何とむごいことでしょう。タソスにとってこの軍隊の通過はとんでもない災難でした。