神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

タソス(7):ペルシアの支配

BC 498年、小アジアに位置するギリシア人の諸都市、いわゆるイオーニア地方と、その北にあるアイオリス地方はペルシア王国の支配に対して反乱を起しました。これが後世、イオーニアの反乱と呼ばれることになる事件です。イオーニア地方やアイオリス地方から離れていたタソスには、当初、この反乱の影響はありませんでした。ギリシア人の中でもイオーニア族に属するエレトリアとアテーナイはこの反乱に援軍の艦隊を派遣しましたが、同じイオーニア族であってもタソスは援軍を派遣することはありませんでした。この反乱はBC 494年にはほぼ終息に向かい、反乱の中心であったミーレートスがペルシア軍によって陥落します。ところが、この時になって急にタソスはこの反乱に巻き込まれてしまいます。それにはヒスティアイオスという人物が関係していました。 

 ヒスティアイオスは、かつてミーレートスの僭主の地位にあり、その後、ペルシア王ダーレイオスのお気に入りとなってペルシア王国の首都スーサで暮らしていたのですが、ある時スーサでの暮らしに飽きて、ミーレートスに反乱を起させたのでした。そして自身は、スーサを脱出し、この反乱に参加しようとしたのですが、ミーレートス人に拒否されてしまいました。すると彼は海賊のようなことを始め、あろうことかギリシアの艦船を襲うようになったのでした。


その後ヒスティアイオスは、ペルシアとの戦争で国力が疲弊したキオスを占領し、その次にタソスを攻略したのでした。タソスはペルシアの味方をしていたわけでもないので、ヒスティアイオスがタソスを攻める大義名分はまったくありませんでした。おそらくヒスティアイオスは軍資金に充てるためにタソスの金鉱を手に入れたかったのでしょう。ギリシアもペルシアも関係なく、ただ自分の勢力を拡大することしか考えていないようなヒスティアイオスによってタソスは包囲されてしまいます。

キオスを平定したのち、ヒスティアイオスイオニア人およびアイオリス人多数を率いてタソス島を攻めた。ところがタソスを攻囲中のヒスティアイオスの許へ、フェニキア軍がミレトスを出航し、イオニアの他の諸市の攻撃に発進したという情報がもたらされた。右の報に接したヒスティアイオスはタソスを未攻略のまま放置し、自ら全軍を率いてレスボスへ急行した。


ヘロドトス著「歴史」巻6、28 から

海の民ではなかったペルシアではフェニキアがペルシアの海軍の主力を担っていました。そのフェニキア海軍がミーレートスを出航し、イオーニアの他の諸市の攻撃に発進したのでした。その情報を耳にしたヒスティアイオスはレスボス島を守るためにタソスの包囲を解きました。彼の配下の兵の多くがレスボス人だったので、レスボスをペルシアから守ろうとしたのでしょう。ところがレスボスに到着した彼の軍隊は糧食が不足していました。レスボス島から徴発するだけでは足りず、対岸の大陸側にも穀物の徴発のために渡海しました。ところがそこには、当時たまたまペルシア軍の大将ハルバコスが軍を率いて駐屯しておりました。彼の軍隊はヒスティアイオスが上陸したところを襲って戦いになりました。戦いは互角で長時間続いたのですがついにヒスティアイオス側が敗走しヒスティアイオスは逃走中のところを捕えられ、殺されました。


これでタソスにとっては一難去った感じでしたが、やがてペルシア軍が侵攻してきます。BC 492年のことでした。タソスは最初から抵抗しても無駄だと思ったのでしょう、それに対して反撃の姿勢すら示しませんでした。タソスはペルシアの(おそらくはフェニキアの)海軍によって占領されます。

 さて春になって他の諸将は大王によって司令官の職を解かれたが、ひとりゴブリュアスの子マルドニオスは海陸の大軍を率いて沿海地方に下った。(中略)マルドニオスはこれらの軍勢を率いてキリキアに着くと、自身は乗船して艦隊とともに発進し、陸上部隊は他の指揮官がこれを率いてヘレスポントスに向った。(中略)ここで海陸の大軍の集結を終ると、ペルシア軍は海路ヘレスポントスを渡り、ヨーロッパに入って進撃したが、目指すところはエレトリアアテナイであった。
 もっともこの二都市は、ペルシア側にとっては単にギリシア遠征の口実に過ぎず、彼らはできる限り多くのギリシア都市を征服する心組みであったから、反撃の態勢すら示さなかったタソスを海軍によって征服するとともに、陸上部隊によってマケドニア人を討ち、すでにペルシアの隷属下にある民族にこれを加えたのである。


ヘロドトス著「歴史」巻6、43~44 から

 こうしてタソスはペルシアの支配下に入りました。翌年、タソスは近くの都市から、ペルシアへの反乱の兆候があると、告げ口されてしまいます。

その翌る年ダレイオスは先ず、タソスが謀反を企てているという隣国からの訴えがあったので、タソスに使者を送り、城壁を取り壊しその艦船をアブデラへ廻すように命じた。事実タソス人は、かつてミレトス人ヒスティアイオスの包囲攻撃を蒙った経験に鑑みて、莫大な収入のあるのを幸い国富を利して軍船の建造と従来より強固な城壁の築営に当っていたのであった。この収入源は本土にあるタソスの領土および鉱山の二つであった。スカプテ・ヒュレの金鉱から平均八十タラントンの年産があり、タソス島内の金鉱の産出額はこれよりは少なかったが、それでも相当の額に上ったので、タソスでは穀物税は徴収しなかったにもかかわらず、その年収は本土および鉱山からの収入を合せると平均二百タラントン、最も多いときには三百タラントンにも達したのである。(中略)
 タソス人はペルシア王の命に基き城壁をとり壊すとともに、全船舶をアブデーラへ回航したのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、46~48 から

タソスはペルシアの嫌疑をはらすために、その指示に従ったのでした。城壁と軍船がなければ、もうタソスにはペルシアに唯々諾々と従うしか道が残されていませんでした。