神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

タソス(9):戦時下の古代オリンピック

この回では、このクセルクセスがギリシア本土に侵攻した年(BC 480年)のオリンピックでボクシングで優勝したタソス人テアゲネースのことを書くつもりでいました。しかし、書こうとした時に「あれ、ギリシア本土が丸ごとペルシアの支配下にされるかどうかという、この危急存亡の時に、オリンピックなんか開催していたんだろうか?」という疑問が湧いてきました。(もちろん今のオリンピックではなく、いわゆる古代オリンピックです。オリュンピア祭典というほうがよいかもしれません)。この疑問を調べていくうちにいろいろ興味深いことが分かってきました。それで、今回はタソスから離れてこの時の古代オリンピックについてのよもやま話ご紹介します。

 まず私が疑問に思ったのは、オリュンピア祭典の間、各ポリスは休戦する慣わしだったということを聞いたことがあったからでした。

 開催に際して、さらに、一つだけ解決しなくてはならない問題があった。国家間の争いの絶えなかったギリシアにおいては、(中略)参加者が無事に開催地に行き着いて祭典に参加できるように、休戦協定を結ぶことが必要不可欠だったのである。(中略)
 オリンピックのための休戦はエケケイリアと呼ばれた。(中略)休戦期間ははじめ一カ月であったが、祭典の規模が大きくなり、参加国が増大し、遠方からの参加者も増えると、二カ月に延長され、最終的には三カ月以上となった。それは、参加者が祖国を出発してから、競技を終えて祖国に戻るのに必要とされた期間であった。


桜井万里子 橋場弦 編「古代オリンピック」の「第Ⅱ章 祭典と競技」の「1 休戦を運ぶ使節たち」師尾晶子著 より

 オリンピックだから休戦しようと言ってもそれはギリシア人同士の取り決めであって、ギリシア人ではないペルシア軍がそれに従うとも思えません。それでもオリンピックは開催されたのでしょうか? そこでヘーロドトスの「歴史」を調べ直してみたところ、次の記事を見つけました。

 スパルタがレオニダス麾下の部隊を先ず派遣したのは、この部隊を他の同盟諸国の眼前に曝すことによって彼らの出師を促すためであって、万一スパルタが逡巡するのを知った場合、彼らもまたペルシア側に加担する恐れがあったため、そのような事態を防ごうとしたものであった。というのもスパルタではカルネイアの祭が出師の妨げとなっていたために、祭の行事を終えた後、守備隊をスパルタに残し、総兵力を挙げて急遽救援にかけつける予定であったのである。そして他の同盟諸国もスパルタと相似た行動をとる意図であった。というのはオリュンピアの祭礼がこの事態と重なったためであったが、かくてギリシア諸国は、テルモピュライの合戦がかくも速やかに決するとは知らず、先遣部隊のみを送ったのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻7、206 から

ここでは、まずスパルタが自分の国の祭であるカルネイアの祭のために軍隊を派遣するのを躊躇することが出ています。このカルネイアの祭でも戦争をすることは憚られていたのでした。しかし、ペルシアの大軍が南下してくるというこの緊急事態にスパルタが軍を派遣しなければ他の諸国はペルシア側に寝返ってしまうと心配して、まずは先遣部隊として王レオーニダース率いる部隊だけを派遣したのでした。ところがあいにくこの年は4年に一度のオリュンピアの祭礼、つまり古代オリンピックの年に当っていました。カルネイアの祭が終るとオリュンピア祭が始まります。このため、同盟諸国も先遣部隊だけ送って、祭のあとに本隊を派遣することにしていた、というのです。
 彼らはテルモピュライという狭い峠でペルシア軍の侵攻を阻止しようとしたのですが、そもそもそれはやがて本隊がやってくるという前提の上でのことだったのです。しかし、意外に早くペルシア軍がやってきて、本隊が到着する前に戦いが始まってしまったために、スパルタと若干の国を除く同盟諸国の軍隊は撤退し、スパルタの300名の兵士(ただしこれはスパルタ市民の数であって、彼らをサポートする従属民は人数に入っていません)はスパルタ王レオーニダースと共に玉砕したのでした。
 つまり、このような非常事態であってもオリンピックは開催されていたのでした。それほど古代ギリシア人にとってオリンピック(=オリュンピア祭礼)は大切なものなのだったのだ、と私は再認識しました。このオリンピックがなければ、スパルタの精鋭300名も玉砕することはなかったでしょう。私たちにとってなかなか想像しづらいのは、古代オリンピックがオリュンピアという聖地にあるゼウス神殿における神事であり、当時のギリシア人がその神事をどれほど大切に思っていたか、ということです。


 ここでオリュンピアとテルモピュライの位置を下に示します。また、オリュンピア祭礼を取り仕切っていた近隣のエーリスの位置も示しておきます。

 現代のオリンピックとは異なり、古代のオリンピックはいつもオリュンピアという場所で行われていました。上の地図を見ると、いろいろなことを感じます。まず、ペルシア軍がかなり南下しているにも関わらず、オリンピックが開催された、ということ。2番目に、ペルシア支配下にあるタソスにもオリンピック開催の案内が伝わった、ということ。3番目に、ペルシア支配下のタソスにいるテアゲネースが、ペルシアの支配下にないオリュンピアへ問題なく旅することが出来た、ということ、です。


 オリンピックの開催は、通信手段が貧弱な古代ギリシアにおいては以下のようにして各国(=各都市)に伝えられました。

 さて、主催国からの開催の通知はどのように行なわれたのだろうか。現在のようにさまざまな通信手段の存在しなかった古代には、使節を各地に派遣するという方法がとられた。オリンピックの開催を告げる使節は、休戦を告げる使節でもあることから、とくにスポンドフォロイ(休戦運び人)と呼ばれた。使節はエリス市民の間から三人が選出され、随行者とともにギリシア各地をまわった。(中略)
 さて、使節たちが到着し、オリンピックの開催日が伝えられ、休戦が宣言されると、各ポリスは順次休戦期間に入った。町には喝采があふれ、使節は客人としてポリスの公式の宴に招待された。


桜井万里子 橋場弦 編「古代オリンピック」の「第Ⅱ章 祭典と競技」の「1 休戦を運ぶ使節たち」師尾晶子著 より

 タソス出身のテアゲネースがオリンピックに出場出来たことから推論して、このオリンピック開催を告げる使節はペルシア占領下のタソスにも問題なく行くことが出来たようです。古代はこういう面ではまだおおらかというか、後の時代の卑劣さを免れているように感じて、私はほっとします。同様にペルシア占領下のタソスからボクシング選手テアゲネースがオリュンピアに旅するのも、そして大会後に帰国するのも問題はなかったのでした。


 さて、上でお話したテルモピュライの戦いがペルシア側の勝利に終ったのち、ギリシアアルカディア地方の人間が数名、ペルシア側に投降してきました。彼らはペルシア王クセルクセースの前に曳き出され、訊問を受けることになりましたが、その折のことです。ペルシア人の訊問官は、ギリシア軍が今何をしているのか、を尋ねました。そのギリシア人たちの返答は、今、オリンピックを観戦している、というものでした。この言葉から推論すると、オリュンピアには参加選手だけが行ったのではなく、観戦しようとする人々も向ったようです。ギリシアの危急存亡の時にです。それを聞いたペルシア人たちは、さぞビックリしたことでしょう。

 折から少数のアルカディア人が、食糧に事欠き、何か職にありつこうとして、ペルシア陣営に脱走してきた。ペルシア人は彼らを王の面前に曳き出し、ギリシア軍の行動について聞き訊そうとした。この質問は、一人のペルシア人が一同に代って問うたものであったが、脱走者たちは、ギリシア人はいまオリュンピア祭を祝っているところで、体育や馬の競技を観覧している、と答えた。


ヘロドトス著「歴史」巻8、26 から

 このあと、アテーナイでは、市域を無人にして、全てを海戦で決する作戦に打って出る決定を下したために、疎開が始まり、男たちは艦船に乗組んでサラミース沖に待機し、家族は近隣の島々やペロポネーソス半島の都市に避難させてそれは大変な大騒ぎになるのですが・・・・。