神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

タソス(10):テアゲネース

 このBC 480年の古代オリンピックで、ボクシングで優勝したのがタソスの人テアゲネースでした。テアゲネースについては周藤芳幸氏の「物語 古代ギリシア人の歴史」のひとつの章に、テアゲネースの一代記の形で紹介されています。

 ですから、それをそのままここに引用すればここでの記述は間に合うのですが、それでは著作権的に問題でしょうし、私としても自分なりの紹介の仕方を探りたいので、なんとか丸写しはせずにやってみます。


 まず、その試合の様子ですが、どうも記録がなさそうなので、ホメーロスイーリアスから似たような場面をご紹介して、それに代えたいと思います。この場面での対戦者の一人は「拳闘にも心得のある、パノペウスの子のエペイオス」で、その相手は「エウリュアロスとて、神にも比(たぐ)う武夫(ますらお)」です。最初は競技者エペイオスの威嚇の言葉から始まります。

「・・・・憚(はばか)りながら私は無敵だ。(中略)
さればこう判然(はっきり)と言っておこう、
その通りに仕遂(しと)げられようが、文句なしに対手(あいて)の皮肉を破り、骨は摧(くだ)いてやるだろうから、此処に居合わす身内の者は、一緒にその儘(まま)待っているがいい、
私の腕に掛かった者を、いずれは運び出すことになろう。」


イーリアス 第23書」より

そして、試合が始まります。

さて両人は(中略)競技場の真中に進み出、面と対って腕を振り上げ、頑丈な手で ともども一時にぶつかり合った、
して激しく拳(こぶし)を振るって闘う、その顎(あぎと)からは恐ろしい歯咬(はがみ)の音が発ち、体中から隈なく汗が滴り流れた。
折から、勇ましいエペイオスは突如と躍りかかって、様子をうかがう対手の 頬桁(ほほげた)を撃つと、もはや長くは耐えていれずに、その儘どっと美事な四肢(てあし)を頽(くず)して倒れた。
(中略)が気性の広いエペイオスは、腕に抱えて起こしてやった。
その周りを親しい友らがとり囲んで、両脚を引き擦(ず)らせたまま、人々の集る中を連れていったが、
固まった血を口から吐き、首(こうべ)は片やに傾(かし)げたままで、
意識もなお あらぬ方(かた)なのを、連れてって 仲間の席に坐(すわ)らせ・・・・


イーリアス 第23書」より

テアゲネースの試合もこんなふうではなかったかと思います。彼はとにかく強かったのです。その4年後のオリンピックでは今度はパンクラティオンというレスリングのような競技で優勝しています。テアゲネースの生涯の優勝回数を、桜井万里子 橋場弦 編「古代オリンピック

では数百回と記し、日本語と英語のWikipediaのテアゲネースの項では1300回と記しています。

同時代の碑文によれば、彼は四大競技会だけでボクシング22回、パンクラティオン2回もの勝利をおさめ、うちオリンピックでの優勝はそれぞれ1回ずつであった。その他の競技会での数百回とも推測される勝利記録を含めて、通算22年間にわたる選手生活を送ってきたという。


桜井万里子 橋場弦 編「古代オリンピック」の「第Ⅳ章 変わりゆくオリンピック」の「2 残照のオリンピア:ローマ時代」井上秀太郎著 より

様々な競技会でテオゲネスはボクシングやパンクラチオンによる試合をし続けてきたが、連戦連勝で決して敗北することがなく、22年間も無敗であった。ネメア大祭とイストミア大祭では9回、ピュティア大祭では3回、オリンピア大祭では前480年にボクシングで、前476年にはパンクラチオンでそれぞれ優勝した。その内、ピュティア大祭における3回目の優勝では、テオゲネスがあまりに強すぎて挑戦者が現れず、戦うことなく優勝を飾った。四大祭全てにおいて優勝した者はペリオドニコス(周期の勝者)と呼ばれ、神々に近い存在とされて並外れた栄誉を授けられたが、テオゲネスこそは最強のペリオドニコスであった。


その並外れた偉業を讃え、オリンピアやデルフィ、故郷のタソス島に彼の彫刻が立てられ、その台座にはテオゲネスが戦った1300回の試合の詳細(無論、全てにおいて勝利を収めている)と、12行にも渡る彼を讃える賛歌が彫られており、今でもそれは現存している。


日本語版ウィキペディアの「テオゲネス」の項より

(なぜが、日本語版のウィキペディアでは「テオゲネス」となっていますが「テアゲネース」が正しいです。)


 この人はタソスでは由緒のあるヘーラクレース神殿の神官の息子でもありました。ヘーラクレースはもちろんギリシア神話の世界の豪勇無双の英雄です。そのことが彼をアスリートの道に進ませたのかどうかよく分かりませんが、ヘーラクレースの神官の子が無敗のアスリートだったというのはよく出来たお話です。彼がまだ9歳の子供の頃、広場から家まで神の真鍮の像を担いで運んだことがあった、という話も伝えられています。後には、彼の本当の父親はヘーラクレースである、といううわさも出てきたそうです。このヘーラクレース神殿は元々はフェニキア人の神メルカルトを祭ったものであることは「2.テュロスのヘーラクレース」でご紹介しました。


 さて、上の日本語版ウィキペディアにもあるように、タソス市民は彼の偉業を讃えて青銅製の彼の彫像を立てたのですが、テアゲネースの死後、この彫像が不思議な目に会います。タソス市民の中でテアゲネースに恨みがあった男が夜にテアゲネースの銅像の所にこっそりやってきて、この銅像を鞭で打ちすえるということがありました。この者は何回もこんなことをしていたのですが、ある夜、鞭で打った拍子にその銅像が彼の上に倒れてしまい、それが元でこの男は死んでしまいました。すると、この男の息子たちがテアアゲネースの銅像殺人罪で訴えたのです。古代ギリシアでは無生物に対しても殺人の罪に問うことが出来たようです。そしてその判決は国外追放でした。その判決に従ってテアゲネースの銅像は海中に捨てられました。
 それからというものタソスでは農産物の不作が続きました。そこで神意を尋ねるために使者をデルポイに送ったところ、デルポイの巫女は「追放されている者全てを帰還させるべし」と告げたのでした。そこでタソス市民は追放した者を帰国させたのですが、それでも不作は収まりません。再度デルポイに神意を伺ったところ、神託は「汝らは偉大なるテアゲネースを忘れている」と告げたのでした。しかし、そうは言われてもテアゲネースの銅像は海底深く沈んでいるので当時の技術では探し出すことも出来そうにありません。タソス人たちがどうしたものかと考えているところに、漁に出ていた漁師が網に引っかかったテアゲネースの銅像を持ち帰ってきたのでした。タソス人たちは大喜びでテアゲネースの銅像を広場に安置し、テアゲネースを神として崇拝することを決議したのでした。すると不作は今度こそ収まったということです。


 ヘーラクレース神殿の神官の子であったテアゲーネースはヘーラクレースのような豪勇の男となり、その競技の成績によってヘーラクレースの息子と呼ばれ、最終的には神とされたのでした。