神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ミュティレーネー(8):サッポー


(上:ローレンス・アルマ=タデマ画 『サッポーとアルカイオス』の部分)


ピッタコスより10歳程度年下であったのが詩人のサッポー(サッフォーとも呼ばれます)でした。サッポーは古代ギリシアの有名な詩人の一人で、のちの時代のことですが、哲学者のプラトーンはサッポーのことを「10番目のムーサ(芸術の女神)」と呼びました。ちなみにあとの9名は本物の女神です(クレイオー、ウーラニアー、メルポメネー、タリアー、テルプシコレー、エラトー、カリオペー、エウテルペー、ポリュームニア)。


サッポーは生前から有名でしたが、その生涯についてはほとんど分かっていません。おそらくミュティレーネーの、別の説ではレスボス島のエレソスという町の、貴族の家の生まれでした。サッポーの詩は、リュラー(竪琴)と共に歌われるために書かれたそうです。私はその光景と、リュラーのメロディーと、一人の女性の歌声を想像します。私の想像では、メロディーは単純でゆったりとして技巧にはしることはなく、歌声はギリシアの青空に似て透き通っています。


サッポーの詩の大部分は今では失われてしまい、完全な詩は1つだけで、あとは断片が残るのみだそうです。私はサッポーの詩を今まで読んだことはなかったのですが、今回、これを書くにあたり、その唯一残った詩「アフロディーテーへの讃歌」をネットで探してみました、すると、「Sappho's Hymn to Aphrodite. Translation, notes and metrical explanation copyright 1997 Elizabeth Vandiver; all rights reserved.」という「アフロディーテーへの讃歌」の英訳を見つけました。しかし残念なことに、ここには「all rights reserved」と書かれているのでその英訳をここでは載せないことにしました。代わりに私のつたない訳(もちろん英語からの訳です。私はギリシア語は分かりません)を載せます。すみませんm(__)m。

虹色の玉座にましますアプロディーテー様、不死の
ゼウスの御子、たくらみの織り手よ、私は今、お願いいたします。
どうか私の心を、お願いです女神よ、
痛みと悩みでこわさないで下さい。

もしあなたがかつて私の願いを聞いたのなら
来たりたまえ、あなたの父上の黄金の館を後にしたときのように。
あなたは輝く車に
羽ばたく鳥たちをつなぎ

輝く大空の道を舞い降りたもうた。
鳥たちはまたたく間に大地の黒き胸にあなたを運び
そして突然の輝きと共に、女神よ、あなたは
私の前に立ちたもうた。

不死のみ顔を笑みもて輝かせ、あなたは私に尋ねられた。
何が私を苦しめるのか、誰が私の悩みの原因なのか、を。
そして、何が私の取り乱した心の痛みを和らげるのか、
なぜ私があなたをお呼びしたのか、を。

私の傍らに立ちて言われるには「そして今ここで、
おまえの情熱の痛みを和らげるために誰の前に「説得の女神ペイトー」を呼び出すべきなのか?
今誰がおまえを苛んでいるのか、サッポーよ。誰が
おまえに意地悪をしているのか?

今、彼女が逃げていくにしても、やがておまえを追いかけるようになるだろう。
今、彼女がおまえの贈り物を拒んでも、すぐにおまえに贈り物を贈るようになるだろう。
今、彼女がおまえを愛さなくても、すぐに彼女の心は
燃え上がるだろう、たとえ望まなくても」と。

もう一度来たりて、私の苦しみを和らげ給え。
私の心から痛みを取り去り、私のこいねがう全てを
与えたまえ、女神よ、私の戦いのすべてにおいて
私の味方となって下さいますように。

確かに「レスビアン」という言葉のもとになった雰囲気があります(あんまりこんなことを言ってはいけないのでしょうが)。そして魅力ももちろんあります。
先にも書きましたが、サッポーの生涯はほとんど分かっておりません。そのわずかに分かっていることのなかには亡命という、およそサッポーのイメージからは遠い出来事があります。

サッポーは生前から詩人として著名であり、シケリア島のシュラクサイに亡命の時期に彫像が立てられたという。またプラトンはサッポーの詩を高く評価し、彼女を「十番目のムーサ」とも呼んでいる。ムーサとはアポロンに仕える9柱の芸術の女神である。
歴史学パピルス)上ではっきりしているのは、サッポーはレスボス島で生まれ、紀元前596年にシケリア島に亡命し、その後、レスボス島に戻ったということのみである。 サッポーに関する文献は少なく、その生涯ははっきりしない。紀元前630年から紀元前612年の間のいずれかの年に生まれ、紀元前570年頃に亡くなったと考えられている。


日本語版ウィキペディアの「サッポー」の項」より

これは同じミュティレーネーの詩人アルカイオスのように、貴族間の抗争が激化して、サッポーの一族も亡命の憂き目を見たのかもしれません。しかしサッポーの詩の中には亡命や政治的抗争をうかがわせるようなものはなく、恋の歌を作ることに専念していたようです。それにしてもシケリア島(シシリー島)まで逃げていったとは・・・。


ところで私がよく引用するヘーロドトスの「歴史」には1回だけサッポーが登場します。ヘーロドトスの「歴史」はペルシア戦争のことを扱った書物です。もっともそうは言いながら、叙述がよく脱線するのですが、その脱線の大きなものにエジプトの歴史を述べた箇所があります。これは、ヘーロドトスの生きていた当時、エジプトはペルシアに占領されていたからで、ペルシアがエジプトに攻め込む前のお話としてエジプトの歴史が語られています。そこに有名なギザの3ピラミッドの話が出てくるのですが、そのなかで一番新しいピラミッドはメンカウラーというエジプト王が作ったものです。ヘーロドトスの「歴史」の中ではメンカウラーという名前がちょっと変わってミケリノスという名前になっています。それはともかく、ヘーロドトスが生きていた当時ギリシア人のなかには、このピラミッドはギリシア人の遊女であるロドピスが作ったものだ、ということを主張する人々がいたそうです。それをヘーロドトスは憤懣やるかたない、という調子で否定して、ついでにロドピスの話を書き記しています。

 ロドピスというのは、右に述べたピラミッドを残した諸王よりも遥かに後の人物で、生まれはトラキア人で、ヘパイストポリスの子イアドモンというサモス人に仕えた奴隷女で、かの寓話作家アイソポス(イソップ)とは朋輩の奴隷であった。(中略)
 ロドピスはクサンテスなるサモス人に伴われてエジプトへ来ると、媚を売って生業を立てていたが、ミュティレネ人のカラクソスなる者に大金をもって身請けされた。カラクソスはスカマンドロニュモスの子で、かの詩人サッポーの兄である。(中略)
 カラクソスはロドピスを身請けしてから国許のミュティレネに帰ったが、サッポーはその詩の中で兄のことを大いに責めている。


ヘロドトス「歴史 巻2・134、135」より

サッポーは兄にはきびしいのでした。