神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

タソス(4):アルキロコス(1)

タソス市の建設者であったテレシクレースにはアルキロコスという名の息子がいました。彼はのちに古代ギリシアで有名な詩人になりました。もっとも彼はテレクシレースの正妻の子ではなかったようです。彼の生涯に関する伝承はいくつかありますが、英語版のWikipediaのアルキロコスの項の記述によれば、どれもほとんど信憑性がないそうです。


アルキロコス

とはいえ、このブログでは信憑性をあまり気にせず伝承をご紹介するのが目的ですので、それらを紹介していきます。今回、アルキロコスのことを調べるにあたり藤縄謙三氏(京都大学名誉教授 2000年没、西洋古典学者)の「アルキロコスについて: ギリシア植民時代の詩人」という論説をネット上で見つけました。アルキロコスの詩の断片を多く収録し、アルキロコスに関する情報満載の論説で、大変参考になりました。こんなものを無料で読めることに感謝しております。まずは、そこからアルキロコスがムーサたち(芸術の女神たち。英語での発音はミューズ。ミュージックやミュージアムの語源となる)に出会って詩人になったいきさつを語った伝説を紹介します。


アルキロコスが若かった頃、彼はパロス島で牛の面倒を見て暮らしをしていました。ある日父親テレシクレースの言いつけで牝牛を一頭町に連れていって売ることになりました。彼は早起きして、その牝牛を町へ引いて行きました。その途中で彼は、数名の女性に出会いました。彼は彼女たちは仕事を終えて町へ戻るのだろうと考えて、近づいて話かけ、彼女たちも笑いながら彼に応対しました。ある女性が「その牛を売りに連れてゆくのか」と尋ねました。アルキロコスがその通りだと答えると、「私たちがその牛の対価として相当なものをあなたに支払いますよ」と言うのでした。アルキロコスがその意味を図りかねていると突然、彼女たちも消え、引いていた牝牛も一緒に消えてしまいました。そしてアルキロコスのは足もとには竪琴(リュラー)が置いてあったのでした。しばらく彼はびっくりしたまま佇んでいたのですが、やがて落ち着くと、あの女性たちはムーサたちで、自分に竪琴を授け給うたのだと悟りました。彼は竪琴を拾い上げて、事件を父に報告したのでした。


この伝説はパロス島のアルキロケイオンというBC 3世紀の遺跡で見つかった碑文に書かれていました。アルキロケイオンというのはアルキロコスを神として祭る神殿のことです。アルキロコスは後世のギリシアで神として崇拝されたのでした。


抒情詩の創始者とも言われるアルキロコスですが、抒情詩という言葉から連想される優美なもの、感傷的なものから、彼の詩は遠く離れているようです。今までこのブログで取り上げてきたミュティレーネーのアルカイオスもそうですし、エペソスのヒッポナクスもそうですが、抒情詩人という語感からはかけ離れた詩人が古代ギリシアには多かったみたいです。ところでアルキロコスの詩で現代まで完全に伝わっているものは1つもないそうです。


彼はある断片で自分のことをこう語っています。

われこそはエニュアリオス(軍神)さまの従卒のいちにんにして
また 詩歌女神(ムウサ)がたの麗わしい賜ものにも長(た)けたるもの(ウェスト、断片一)

と歌ったのは、ヘシオドスに間をおかず姿を現わすアルキロコスであった。


ヘシオドス「神統記」 廣川洋一訳 の解説より

アルキロコスは詩人でありながら戦士でもあったのです。次の詩は英語版のWikipediaのアルキロコスの項に引用されていたものの拙訳です。私には戦場を歌った詩のように思えます。

我が魂、我が魂、癒しがたい不幸によってかき乱された全てのものよ、
今はこちらから、そして今はあちらからと、お前に殺到する多くの敵に
耐え、持ちこたえ、正面に迎えよ、間近な衝突の全てに耐えよ。
ためらうな。そしてお前は勝つべきだ。おおっぴらに勝ち誇ることもなく、
あるいは負けて、家の埋みの中で自分を歎きの中に投げ込むこともなく。
度を越さずに、楽しい物事には喜び、つらいときは悲しめ。
男の人生を支配するリズムを理解せよ。

最後の「リズム」というのは、人生の浮き沈みには周期があると考え、それを一種のリズムと捉えているのだそうです。次の詩にもそのリズムのことが歌われているようです。

・・・・かかる惨事は時の移るとともに、
別の人を襲いゆくもの。今は吾らの襲われる順番なので、
 それで吾らは血まみれの傷口を大声で嘆いているのだ。
だが、すぐにも他の人々の所へ移ってゆくだろう。
 さあ諸君、早く女々しい苦痛を追い払って耐えるのだ。


アルキロコスについて: ギリシア植民時代の詩人」藤縄謙三著 より