前にも述べましたように、アルキロコスの生涯についての伝承はほとんど信憑性がないとのことですが、それでも彼の生涯をたどる努力をしてみましょう。
彼は、タソスの植民市創立者であったパロス人の貴族テレシクレースの子としてパロス島で生まれました。母親の名前はエニポーといい奴隷であったといいます。しかし英語版Wikipediaのアルキロコスの項では、これは彼の詩の誤読から生れた伝承である、としてその信憑性を疑っています。
やがて父親はデルポイの神託に従ってタソス島へ植民団を率いて植民しましたがアルキロコスはパロス島に残りました。その後アルキロコスはパロス島で日蝕を体験しました。アルキロコスは日蝕に非常な驚愕を覚え、そのことを以下のように詩にしています。
物事には、予期はずれのことも、誓って不可能だと言えることも、
不思議なこともないのだ。オリュンポスの神々の父ゼウスが、
輝く太陽の光を隠して、真昼から夜にしてしまったのだから。
そして人間どもは恐怖で青ざめたのであった。
この時から、人々の間で万事が信じがたく、また何事でも
予期されるのだ。もはや諸君のうち誰一人として驚いてはならぬ。
たとえ諸君の眼前で獣どもが海豚に代って海の牧場に移り住み、
そして海の怒涛の方が、陸地よりも気に入ってしまい、
また海豚が山に潜るのを好きになったとしても。 (74D)
「アルキロコスについて: ギリシア植民時代の詩人」藤縄謙三著 より
天文学によれば、これはBC 648年4月6日のことだそうです。
パロス島でアルキロコスに関わるひとつの事件がありました。彼はパロス人のリュカンベスと、リュカンベスの娘ネオブーレーとの結婚について合意を得ていたのですが、後になって理由は定かではないのですが、リュカンベスは婚約を破棄しました。そこでアルキロコスはこの父娘を罵倒する詩を作り、それが原因でネオブーレーとその妹は首を吊って死んでしまったというのです。
この話はエペソスの悪口詩人ヒッポナクスについて伝承されている話とよく似ているので、どうも本当らしくありません。リュカンベスを非難する詩は残っているので、リュカンベスとの間にトラブルがあったことは事実のようですが、娘が首を吊ったというのはたぶん後世の作り事でしょう。それどころか英語版Wikipediaのアルキロコスの項には「最近の若干の学者は、リュカンベスとその娘は、実際には詩人の同時代人ではなく、伝統的な娯楽における架空の人物であると信じている。」とあります。あるいは、やはりリュカンベスは現実にいたパロスの有力者であり、アルキロコスは自分の母親の出自が低いことの埋合せとして、この有力者と結びつくことで自分の社会的地位を上げようとしたが、それに結局失敗したのだ、と論じる学者もいるとのことです。こうなると何が真実なのか見当がつきません。
一般には、上記の事件がきっかけとなってパロス島を離れタソスに移住した、というふうに言われています。彼は海賊になったとか傭兵になったとかいう伝承もありますが、本当かどうか分かりません。
アルキロコスはタソス島を次のように歌っています。
この島は原生林に覆われて、
驢馬の背のように立っている。
「アルキロコスについて: ギリシア植民時代の詩人」藤縄謙三著 より
南エーゲ海の島々のように乾燥しておらず、どちらかというと日本のように木々が鬱蒼としているのがアルキロコスには印象的だったのでしょう。
(タソスのアゴラの遺跡)
タソスに移住してみたものの彼はそこでも不満でした。自分の詩の中で「タソスなる三重に悲痛なポリス」と言い「すべてのギリシア人の苦悩はタソスで集まった」と表現しています。それでも彼はタソスのために兵士として敵と戦ったのでした。トラーキア人の一部族サイオイ族との戦いの際に楯を捨てて逃げて来たことは「3:タソス植民」で紹介しました。また、トラーキアとの戦争の予感を海の波に譬えて以下のように歌っています。
グラウコスよ、見よ。すでに海は波浪で逆巻き、
ギュライの頂上には雲が立つ。これは嵐の前兆。
予期せざる所から恐怖が迫り来る。
「アルキロコスについて: ギリシア植民時代の詩人」藤縄謙三著 より
ここで呼びかけられているグラウコスというのは当時のアルキロコスの親しい友人でした。このグラウコスを記念した碑がタソス島で出土しています。
やがてアルキロコスはタソス島を去り、スパルタを訪れました。しかし、楯を捨てて逃げたことを自慢して詩に歌うような人間は、スパルタ人にとっては卑怯者と思われ、アルキロコスの他の詩も不道徳なものとされました。そのため彼はスパルタを追放されます。結局彼は故郷のパロス島に戻り、そこで隣の島であるナクソス島との戦いにおいて戦死した、ということです。アルキロコスを倒したのはコラクスという名前のナクソスの戦士でしたが、彼がその後デルポイへ神託をもらいに出かけたところ、デルポイの巫女は神アポローンの言葉として「汝はムーサ(芸術の女神)のしもべを殺した。神殿から立ち去れ」と告げた、と伝えられています。
- アルキロコスから話は外れますが、この伝承はプルータルコスなど後世の著作家の興味を惹きました。というのはコラクスは自分の国の防衛のために戦ったのであり、古代ギリシアの常識としてはそれは正当な義務であり、神の叱責を蒙るべき事柄ではなかったからです。
アルキロコスの詩は、吟遊詩人たちによって宴会の場などで歌われるようになり、故郷パロス島ではホメーロスに匹敵するほど偉大な詩人と讃えられました。そして、BC 3世紀にはパロス島にアルキロコスの聖域アルキロケイオンが設立され、彼を崇拝する者たちが、アポローン、ディオニューソス、ムーサたちと一緒にアルキロコスに犠牲を捧げたのでした。