神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ミュティレーネー(7):ピッタコス

ミュティレーネーの王位を独占していたペンティリダイ一族はやがて勢力が衰え、BC 7世紀頃には他の貴族たちと抗争するようになったようです。ペンティリダイについてはなかなか情報がないのですが、アリストテレース政治学に断片的にある以下のような記述は、背景がよく分からないですが、ここから、当時の抗争が激しいものだったことだけは感じ取れます。

しかし多くの人々は笞打によって身体に苦しみを受けたために怒って、侮辱されたと思い、苦しみを与えた人がたとい重い役に就いている人々や王族に属している人々であっても、或はこれを亡ぼし、或は亡ぼそうと企てた。例えばミュチレネでメガクレスはペンチロスの一族が歩き廻って棍棒でなぐっているところを友人と共に攻撃してこれを片づけ、またその後にスメルデスは笞打を受け、その妻のところから引きずり出されたので、ペンチロスを亡ぼした。


アリストテレス政治学、第5巻、第10章、19節」より


その後、メランクロスという者がミュティレーネーの僭主になりました。ミュティレーネーの貴族の一人ピッタコス(左の胸像の人)はこの政権に反対し、仲間とともにこの政権を何度か打倒していますが、メランクロスも何度も政権に復帰したようです。これはBC 612年からBC 609年にかけてのことだそうです。ピッタコスの仲間には、のちに紹介する詩人アルカイオスの兄たちも参加していました。その後、メランクロスに代わってミュルシロスが僭主になりました。ピッタコスはこの政権にも反対します。詩人アルカイオスはメランクロスの時は若過ぎてこういう政治的な策動に参加出来なかったのですが、今回は参加しました。しかし、アルカイオスの言によれば、途中でピッタコスはアルカイオスの一族を裏切ってミュルシロスに味方し、その結果、アルカイオスたちはミュティレーネーから亡命することになったということです。ピッタコスがどのような政治思想を持ち、アルカイオスがどのような政治思想を持っているのかよく分からないので、彼らが何を争っていたのかがよく分かりません。


さてそののち、ピッタコスが活躍する事件が起きました。「ミュティレーネー(5):ヘレースポントスの確保」でお話ししましたようにミュティレーネーはヘレースポントス海峡の入口にシゲイオンという町を建設して、この海峡の出入りを掌握していましたが、これを邪魔に思うアテーナイがシゲイオンを征服するために遠征軍を送ったのです。軍を率いるのはパンクラティオン競技で古代オリンピックの優勝者になったことのあるというプリュノンという人物です。アテーナイがシゲイオンを攻めることを知ったピッタコスは自らが将軍となってミュティレーネー軍を率いてシゲイオンに向いました。そして、アテーナイの将軍プリュノンに向って「戦争で多くの血が流されるのを甘受する必要はない。我々が一騎打ちでことを決着させればよいのだ。」と言って、プリュノンとの一騎打ちを提案しました。プリュノンもそれに同意したので、二人は一騎打ちをすることになりました。ディオゲネス・ラエルティオスを引用します。

彼(ピッタコス)は楯のうしろにひそかに網をかくしておいて、それでプリュノンを巻き込み、これを殺して、その土地を取り戻したのである。


ディオゲネス・ラエルティオス「ギリシア哲学者列伝(上)」より

この功績によってミュティレーネーの人々は民会でピッタコスに国制上の最高の地位に選出したのでした。

ミュティレネの人びとはピッタコスをたいへん尊敬して、国の統治を彼の手にゆだねた。彼は十年間支配者の地位につき、国政を秩序あるものとした上で、支配の座を降りたが、その後もう十年間彼は生きのびた。そこでミュティレネの人びとは彼に一区画の土地を贈ったが、彼はこれを聖なる土地として神に献納した。


ディオゲネス・ラエルティオス「ギリシア哲学者列伝(上)」より

ピッタコスがミュティレーネーの政治を執っていたのはBC 590~580年のことです。ピッタコスはミュティレーネーの政治情勢を安定させると、亡命していたアルカイオス一派の帰国を許し、彼らもミュティレーネーに戻ってきました。
ピッタコスは、ミーレートスのタレースのように、七賢人のひとりに数えられています。ピッタコスが政権にある時に定めた法律のひとつは「罪を犯したときに酩酊しいてた者には、その罰は2倍に加重される」というものです。これはレスボス島は大量のワインを産するので、それによって酔った上での犯罪を抑制しようとしたものです。


ピッタコスには、リュディア王クロイソスがエーゲ海の島々を征服しようとするのを、以下のように説いて止めさせた、という話もあります。

アジアのギリシア人が征服されて朝貢するようになると、今度は船を建造して島に触手を伸ばそうと考えた。造船の準備万端が整った頃のことである。一説によればプリエネのビアス、別の説ではミュティレネの人ピッタコスがサルディス*1に来て、ギリシアで何かニュースはないかと訊ねたクロイソスに、次のような話をして彼の造船計画を止めさせたという。
「王よ、島の住民どもは、あなたを目指しサルディスに攻め込もうと、莫大な数の馬を買い集めておりますぞ。」
 クロイソスは相手の話を真実だと思ってこういった。
「神様が島の住民どもに、リュディアを馬で攻めようという気を起させて下さるならば、まことに有難いことじゃ。」
 すると相手が答えていうに、
「王よ、あなたは島の者どもが騎馬で侵攻して参ったならば、陸上で捕捉してやろうと意気込んでおいでのようにお見受けしました。まことにごもっともなこと。しかしながら、もしあなたが島を征伐ささるため船の建造を計画なさっておることを、島の者たちが知ったならば、誓ってリュディア軍を海上に捕捉し、あなたによって隷属させられております、大陸在住のギリシア人たちの報復を遂げよう、と念願するとはお考えになりませぬか。」
 クロイソスはこの結論が大層気に入り、彼のいうのがもっともであると考えたので、その言を容れて船の建造を中止し、島に住むイオニア人たちと友好同盟を結んだのであった。


ヘロドトス「歴史」巻1・27 より


また彼には以下のような逸話もあります。これは、どう受け取ってよいのかよく分からない話ですが、ともかくご紹介します。

彼(ピッタコス)の息子のテュライオスがキュメの町の床屋で腰をおろしていたとき、一人の鍛冶屋が斧を振りおろしてその息子を殺してしまった。キュメの町の人たちがこの殺害者をピッタコスに引き渡すと、彼は事の次第を聞いたうえで、その者を放免してやりながら、こう言ったとのことである。「許してやる方が(罰を科して)後悔するよりもよい」と。


ディオゲネス・ラエルティオス「ギリシア哲学者列伝(上)」より

なお、キューメーは海を渡った小アジア側にある町で、ミュティレーネーと同じくアイオリス人の町でした。

(上の地図に示したのは、アイオリス人の町々です。)

*1:リュディアの首都