神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

トロイア(9):ヒッタイト文書におけるウィルサ(1)

ヒッタイトの文書に登場するウィルサという国がどうやら当時のトロイアのことを指しているらしい、ということはお話ししました。では、その文書にはウィルサについてどのようなことが書かれているのでしょうか? USAのWikipedaにはこれに関連する多数の項目があるようですが、まだ全体像をつかめるほど読み切れていません。それに各項目の内容で同じ事柄について少しずつ相違があったりするので、どちらが正しいのか迷ってしまうこともあります。それでも、今まで読んだところから分かることをご紹介したいと思います。


USAのWkipediaの「ウィルサ」の項には、ウィルサが登場する4つの文書が紹介されており、それぞれの文書についてWikipediaの項目が立てられています。それらは以下のものです。以下の文書は推定された年代の古い物から順に並べられています。

一方、考古学のほうでトロイア戦争(の伝説の元になったらしい戦争)の跡はトロイアVIIa層で見つかっていて、ドイツのコルフマン教授の説ではVIIa層の終りは約BC 1190年と推定されており、この年にVIIa層のトロイアの都市はおそらく戦争によって破壊された、ということです。この年代を受け入れるとすると、上記の4つの文書はトロイア戦争よりも50年から100年前の文書ということになります。



(左:ヒッタイト語文書)


マナパ・タルフンタ書簡(約BC 1310~1280年)

この書簡の名前の元になったマナパ・タルフンタというのは人名で、ヒッタイトに従属(あるいは同盟)している国の王(以下、侯王という言葉で示すことにします)でした。この書簡はこのマナパ・タルフンタがヒッタイト王に宛てた書簡です。ヒッタイト王の名前は書簡からは明らかではありません。


ここではピヤマ・ラドゥという人物がヒッタイトに従属(あるいは同盟)している国々を侵略していること、マナパ・タルフンタがピヤマ・ラドゥを駆逐するのに失敗したこと、そのためにヒッタイトから軍隊が派遣され、ウィルサに向ったことが書かれているそうです。どうやらピヤマ・ラドゥはその時ウィルサを襲撃しているところだったようです。

アラクサンドゥ条約(約BC 1280年)

ラクサンドゥはウィルサの王の名前です。このアラクサンドゥとヒッタイト王ムワタリ2世の間の条約が、この条約です。この条約文によれば、ウィルサはヒッタイト王ムワタリ2世の祖父シュッピルリウマ1世の頃から友好関係にあったようです。つまり、ウィルサはヒッタイトの属国であったようです。


1920年代にスイスの学者エミール・フォラーはこの条約を根拠に、ウィルサをイーリオス、つまりトロイアと同定し、さらにこのアラクサンドゥという名前が、伝説に登場するトロイアの王子パリスの別名であったアレクサンドロスと似ていることを指摘しました。トロイアの王子パリスは、美女ヘレネーをギリシアから連れ出してトロイア戦争の原因を作った人物です。


とはいえアラクサンドゥが、推定されるトロイア戦争(BC 1190年)よりも100年近く前の人物であることにも注意しなければなりません。それに伝説のパリス/アレクサンドロストロイアの王にはなっていません。たとえ伝説のパリスの元になった人物がトロイア戦争当時に存在していたとしても、その人物とこのアラクサンドゥは別人のはずです。せいぜい、ホメーロスイーリアスを作る時に(あるいは他の誰かがトロイアの伝説を作る時に)トロイア側の人物の名前として漠然とギリシア人に伝えられているアラクサンドゥ(あるいはそれに似たアレクサンドロス)という名前を借りてきただけ、ということなのでしょう。


このアラクサンドゥという名前には困ったことがあります。アレクサンドロスというのは純然たるギリシア語の名前で、「人を守る者」という意味です。ですのでアラクサンドゥという名前がギリシアアレクサンドロスという名前に変化したとは考えにくいのです。そうするとこのアラクサンドゥという名前は、ギリシア人の名前アレクサンドロスから変化したものなのでしょうか? 線文字Bをヴェントリスと一緒に解読したチャドウィックは著書「ミュケーナイ世界」の中で、アレクサンドロスの女性形であるアレクサンドラーが線文字Bの文書に登場することを指摘し、当時からギリシアではアレクサンドロスという名前が使用されていたはずであることを述べています。そうすると、この時のウィルサ(=トロイア)の支配者はギリシア人だったのでしょうか? あるいはアラクサンドゥは、ある程度ギリシアの血を引く人物だったのでしょうか? 謎は深まります。

タワガラワ書簡(約BC 1250年)

タワガラワというのはアヒヤワという国の王の兄弟の名前です。このアヒヤワはスイスの学者エミール・フォラーによってアカイア、つまり当時のギリシアと同定されました。この説には反対もあったのですが、今では多くの学者が受け入れているようです。この書簡にタワガラワという人物が登場するためにタワガラワ書簡という名がついたのですが、内容的にはタワガラワはあまり関係ないそうです。この書簡はヒッタイト王(名前は書かれていない)からアヒヤワ王(名前は書かれていない)に宛てたものです。この書簡によればかつてヒッタイトとアヒヤワはウィルサをめぐって対立していたが、今では対立は解消しているとのことです。そして「我々がそれを巡って戦ったウィルサについて今や合意がなったので・・・」という文章が登場します。一部の学者はこれが現実におけるトロイア戦争の発端を示すものだと考えています。私はトロイア戦争をBC 1190年あたりに置くので、これがトロイア戦争の発端だとは思いません。

ミラワタ書簡(約BC 1240年)

ヒッタイト王(名前は書かれていない)から名前の書かれていない、西アナトリア(トルコ西部)の侯王に宛てた書簡です。ミラワタというのは地名で、のちのミーレートスと同定されています。この侯王のところにウィルサの王位を失った者がおり(亡命してきたか、あるいは、侯王に捕えられたのか分かりませんが)、その者をヒッタイトに引き渡すように書簡は要求しています。ヒッタイト王は彼をもう一度ウィルサ王に据えるつもりだと書いています。