神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

トロイア(3):伝説における初期のトロイア

現実のトロイアについてお話しする前に、伝説上のトロイアについて、その起源から、それぞれの時代にどのようなことがあったと伝えられているかを、ご紹介したいと思います。トロイアの伝説の範囲は、単にトロイア戦争に留まらないことが分かると思います。


ある時、トロイア戦争の合戦の中で、トロイア側の将アイネイアースは、ギリシア第一の勇士アキレウスと対決する際に、彼に向って自分の素性を長々と述べています。日本の中世の合戦で「我こそは何々」と名乗りを挙げる習慣と似た習慣なのでしょう。

だがもし御身が、我らの世系を詳しく訊ねたまおうとて、委細を知ろうと
望まれるなら、多勢の人も知っていること故(話して聞かそう)。


ホメーロスイーリアス」第20書 呉茂一訳 より

ここではこのアイネイアースの名乗りに沿って、トロイアの起源から、その初期の出来事をご紹介します。

ことの始めはダルダノスを 群雲を寄すゼウスが 設けたもうて、
ダルダニエーの都を建てた、その頃まだ聖(とうと)いイーリオスは
物思う人間どもの城市として この平原に 築かれてはいず、
人々はまだ 泉に豊かなイーデーの山の 麓あたりに住居していた。


同上

トロイアの王統の始祖はダルダノスという人物でした。彼は神々の王ゼウスと、天空を支えるという巨人神アトラスの娘ですばる星(プレイアデス)の一人エレクトラーとの間に生まれた息子です。彼はダルダニア(イーリアス叙事詩特有の方言ではダルダニエーとなる)の都を建てたのですが、それは後にトロイアが建設された場所とは少しズレていて、イーダ山(上の引用では「イーデー」)の麓にありました。ダルダノスにちなんで、彼の住民たちはダルダノイと呼ばれました。

なお、上の引用中の「聖(とうと)いイーリオス」という句の中の「イーリオス」という言葉は、トロイアという言葉とほぼ同じ意味を持っています。両者の差をあえて求めると、どうもイーリオスはトロイアの中心にある城壁に囲まれた部分を指しているようです。イーリオスはイーリオンとも呼ばれます(ややこしい話ですが)。

そのダルダノスが今度は 息子にエリクトニオスの王(きみ)を設けた、
この人こそは、命死ぬべき人間のうち 一の長者と知られた者とて、
その持馬の三千頭を 沢の牧場に飼いならわした。
いずれも牝馬の、やさしい仔馬を傍(わき)に従え、跳びまわっていた、


同上

その息子がエリクトニオスです。

さてエリクトニオスは、トロイエー人らの君として トロースを設け、
そのトロースからまた 人品優れた三人の子が 生まれ出たもの、
イーロスとアッサコラスと、神にも類(たぐ)えるガニュメーデースと。
この者こそ 命死ぬべき人間中で 第一の美男子とあったものを、
神々が、ゼウスのために酒の酌人(つぎて)になされようとて 攫(さら)ってゆかれた、
その容色の美しさゆえ 不死にます神の間に住まわせようと。


同上

エリクトニオスの息子がトロースで、このトロースが王位についている時に、この王の名にちなんで土地の名をトロイアと名付けたということです。トロースの三人の息子のうちガニュメーデーは、その美しさのゆえ、神々の王ゼウスによってさらわれて、天上の神々の世界の住人になったと伝えられています。ゼウスは美女にも目がないのですが、美男にも食指を動かすのでした。ガニュメーデースは不死となり、神々の宴席において酒を注ぐ役目を与えられました。のちに彼のことは星座のみずがめ座に結び付けられました。

(上:ルーベンス作『ガニュメデスの誘拐』)



(上;みずがめ座

また、ガニュメーデースを誘拐する際にゼウスは鷲の姿になって誘拐したとか、あるいはゼウスの使いの者としての鷲がさらったとか、言われています。その鷲は星座のわし座になったといいます。

(上:わし座)


ゼウスは人の息子を誘拐したのことに後ろめたくなったのか、あとで父親のトロースに息子の代償を与えました。それは神的な属性を持つ馬でした。のちに多くのギリシア人がこの神馬の血を引く馬を求めることになります。前記のアイネイアースが戦車につないで使っていた馬たちもこの神馬の子孫でした。イーリアスによれば、それを狙うギリシアの将ディオメーデースは、これらの馬について以下のように述べています。

そいで、待ち構えていて、アイネイアースの馬乗物へ躍りかかって、
トロイエー方から、脛当よろしいアカイア軍(=ギリシア軍)の陣中へと追っていくよう。
というのも彼らはもとトロースに、遥かにとどろくゼウス大神が、
息子ガニュメーデースの身の代として 授けた馬の血統なのだ、
それこそ曙とまた太陽の下に あるほどの馬中一番の駿馬といわれる、


ホメーロスイーリアス」第5書 呉茂一訳 より