神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

トロイア(11):遺跡の層(IからVIIbまで)

今度は遺跡の層からどのようなことが分かっているのか調べてみます。

(上:トロイアの遺跡の層)


一番下の層はトロイアIです。この遺跡はコルフマン教授によればBC 2920年からBC 2550年頃のものであるということです。BC 2920年というとエジプトでも古王国が始まる前で、初期王朝の時代です。エジプトのギザの大ピラミッドで有名なクフ王が活躍したのがBC 2570年頃で、このトロイアIの終り近くになります。トロイアIの住民が、のちのトロイア戦争の頃の住民と同じ民族だったかどうかは分かりません。この頃にはヒッタイト王国もまだありません。この頃のトロイアの城壁で囲まれた部分は直径100メートル程度の小さなものでした。このトロイアIは最後には別の人々に乗っ取られて終わったようです。

トロイアの東側にあった諸都市は破壊され、トロイアは火災に遭わなかったものの、次の時代は文化の変化を示しており、それは新しい人々がトロイアを乗っ取ったことを示しています。


USAのWikipediaの「トロイア」の項の「トロイアI~V」の節より


次のトロイアIIは城壁で囲まれた部分の面積がトロイアIの2倍になりました。トロイアIIはBC 2550年から2250年頃までの約300年間続き、その後、大規模な火災で破壊されました。シュリーマンが財宝を見つけたというのはこの層です。彼はそれをプリアモスの財宝」と呼びました。プリアモスというのはイーリアスに登場するトロイアの老王の名前です。彼はこの財宝こそ、トロイア戦争で滅んだ当時のトロイアの財宝だと考えたわけですが、実際には、トロイア戦争が現実にあったとしても、それより1000年も昔のものなのでした。

(上:プリアモスの財宝のひとつ)


しかも、これらの物が本当にここで発掘されたものなのかについては、疑問もあるようです。


トロイアIII, IV, Vと、トロイアは再建されるたびに城壁で囲まれる部分が大きくなっていきます。トロイアVはBC 1900年頃から始まります。この頃のアッシリアの文書にヒッタイト人とルウィ人と思われる個人名が現れるそうです。しかし、だからといってルウィ人がトロイアにすでに住んでいたかどうかは分からないでしょう。


トロイアVIはBC 1700年から始まり、この時代にトロイアが長距離貿易の中継基地として栄えたことが分かっています。

トロイアVIでは長距離貿易が盛んでした。その体制の盛期の間のトロイアVIは、5,000人から10,000人の規模を維持していました。当時、トロイアは大きくて重要な都市だったでしょう。トロイアの位置は、初期青銅器時代(紀元前2000〜1500年)には非常に実用的でした。これは中期および後期青銅器時代に、アフガニスタンペルシャ湾バルト海地域、エジプト、西地中海地域のような遠く離れた地域との長距離貿易の中継点として機能しました。初期および中期青銅器時代の貿易関係は、トロイアVIにこの地域の長距離貿易産業で有利な力をもたらしました。トロイアVIを通過すると思われる物品の量は非常に多く、東から金属を取得し、西から香水や油を含むさまざまな物品を取得していました。これは、トルコの海岸沖で数百の難破船が発見されたことによって分かりました。これらの船には豊富な品物が見つかりました。これらの船の一部は、15トンを超える貨物を運んでいました。これらの難破船で発見された商品には、銅のインゴット、スズのインゴット、ガラスのインゴット、青銅製の道具と武器、黒檀と象牙、ダチョウの卵の殻、宝石、地中海各地の大量の陶器が含まれていました。


USAのWikipediaの「トロイア」の項の「トロイアVIとVII」の節より

ルウィ語象形文字の印章が見つかったのはこの層です。この層ではまた、当時のギリシアの陶器も見つかっています。ですのでギリシアとの何らかの交流があったことが分かります。このトロイアVIの期間のBC 1500年頃、エーゲ海の覇権はクレータ島を中心とするミノア文明から、ギリシア本土を中心とするミュケーナイ文明に移行しています。トロイアVIはBC 1250頃、地震で破壊されました。BC 1250年頃といえばヒッタイト語のタワガラワ書簡(約BC 1250年)ヒッタイト王がアヒヤワ王(=ギリシアのどこかの王?)に対して

我々がそれを巡って戦ったウィルサについて今や合意がなったので・・・

と書いていたことを思い出します。この地震と、上に述べた戦いには、何か関係があったのでしょうか? 気になります。


地震のあとトロイア人は町を再建します。これがトロイアVIIaです。コルフマン教授は、トロイアVIIaはトロイアVIの延長であり、「2つの期間の間に物質的な文化に実質的な違いはなかった」と主張しました。とはいえ、トロイアVIIaにはVIとの大きな違いがありました。それは、VIIaでは多くの人々が城壁内に移動した形跡があるということです。これは、戦争の脅威に対抗したものと見られています。そしてこの層からは通りや家の中に横たわる、明らかに傷つけられた人々の遺体や、矢じりや、火災の跡が発見されました。この層VIIaの終了はBC 1190年頃と推定されています。ここからトロイアVIIaが、ホメーロスイーリアスで描いたトロイアに当るだろうと推定されています。トロイアVIIaの最後には、以下のような光景があちこちであったことでしょう。

その人は自分の町や子供らのため、無慚な日を防禦しようとて、
城塞(とりで)の前で、また衆人の目の前で、打ち倒された、そのいとしい夫が
今しも死んでいこうとて、喘ぐさまを見て、堪(た)えきれずに妻が馳せ寄り、
その身の上にくずおれかかり、声高く号泣する、それを敵(かたき)の者どもが
後ろからして木の槍で、背中や肩を小突きまわしつ、隷従の
境涯へと引っぱっていく、苦労やら愁嘆やらに身を任させると、――


ホメーロスオデュッセイアー」第8書 呉茂一訳 より


伝説では、ギリシア軍はトロイアを完全に破壊したことになっていますが、考古学ではトロイアVIIaが破壊されてもその上にトロイアVIIbが再建されています。文化はトロイアVIIaに比べてつつましいものになっています。