遺跡の層のトロイアVIIIはBC 85年に終わり、この年からはトロイアIXが始まります。では、BC 85年に何があったのでしょうか?
実は、この年にトロイアは共和制ローマの将軍フィンブリアによって破壊されたのでした。この時ローマは、黒海沿岸にあったポントス王国のミトリダテース6世と戦争中でした。ローマは、BC 146年にギリシア本土を併合しアカエア属州とマケドニア属州とし、BC 133年に小アジアの一部を支配していたペルガモン王国をその国王から寄贈されアジア属州として編入していましたが、これらの領土を奪おうとミトリダテースが軍を小アジアに進め、ローマとの戦争になったのでした。トロイアがフィンブリアに破壊された時点での形勢は複雑でした。まず、ローマという国家とミトリダテースのポントス王国が敵対していたのですが、そのローマの内部も貴族派と民衆派に分裂し、内戦状態にありました。ローマの将軍スッラが対ミトリダテースのための軍を率いてギリシア本土にいましたが、スッラは貴族派に属していました。スッラの留守中にローマ政府は民衆派が政権を握ることになり、スッラを国賊とみなす決議をし、スッラを罷免するために別の将軍フィンブリアを派遣したのでした。しかもフィンブリアは小アジアでミトリダテースの軍勢とも戦い、これを破っています。
(右:スッラ)
こうして、互いに敵対する3つの勢力が対峙することになりました。ミトリダテースのポントス王国と、将軍スッラの率いるローマ軍と、将軍フィンブリアの率いるローマ軍です。トロイアはスッラの味方をしたためにフィンブリアによって町を破壊されたのでした。しかし、このあとすぐにスッラとミトリダテースが停戦し、スッラはフィンブリアに立ち向かいました。フィンブリアは隷下の兵士たちの寝返りにあい、自殺します。スッラはフィンブリアのローマ軍を自分の指揮下に納めます。そして、自分を支持したために破壊されることになったトロイアに寄付金を出しました。その金はもちろん、トロイアの再建に役立ちました。トロイアはスッラの好意に報いるために、この年(BC 85年)を始めの年とする市のカレンダーを制定しました。フィンブリアによって破壊された都市がトロイアVIIIであり、これから再建される都市がトロイアXIと現代の考古学では呼ばれるようになったわけです。
この頃トロイアはローマ領で、アジア属州に属していました。ローマの徴税請負人が不当にもトロイアのアテーナー神殿に税金を課したため、トロイアの人々はローマ政府に陳情に向ったのですが、この時陳情に行った先が元老院議員だったルキウス・ユリウス・カエサルです。これは、有名なユリウス・カエサルではなく、その従兄弟だった人です。有名なユリウス・カエサルはガイウス・ユリウス・カエサルでした。
ここで面白いのは、カエサル一族が属していたユリウス氏族というのが、トロイア戦争時のトロイアの英雄アイネイアースの息子ユールスを始祖とする、という伝承を持っていたことです。このようなことから、トロイアの人々(とは言っても、かつてのトロイア人の血をあまり引いてはいなさそうなギリシア人ですが)にはユリウス・カエサルは頼み易い人物だったのかもしれません。のちに、有名なほうのカエサル、すなわちガイウス・ユリウス・カエサルもトロイアをひいきにしました。さらには、カエサルの後継者となった初代ローマ皇帝アウグストゥスは、トロイアにイリウム(イーリオンのラテン語形)という新しい町を建設したのでした。この頃には詩人ウェルギリウス(彼は、皇帝アウグストゥスの後援を受けていました)の「アエネーイス」によって、アイネイアースがトロイア落城後、部下を引き連れてラティウムに上陸し、そこの王の娘ラウィーニアと結婚して都市を築き、その子孫がローマを建設したという伝説は、広くローマ帝国内に知られるようになっていました。そのためトロイアは、ローマ人の祖先発祥の地としてローマ帝国治下で栄えることになったのでした。
(左:アウグストゥス)