神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

トロイア(16):伝説と歴史の間

私はいつもならエーゲ海に面したある町について、神話・伝説から始めて徐々に歴史につなげるように記述をしていくのですが、このトロイアの回は途中でヒッタイトの文書を取り上げたために、ある時代について一方は伝説としての記述、もう一方は同時代の文書から推定される歴史としての記述、の両方が出て来ることになってしまいました。その伝説と歴史がある程度似た内容であれば混乱はしないのですが、今回のトロイアの場合、私には両者がかなり異なって見えてしまったため戸惑っています。


何よりも異なっているのはヒッタイトの扱いです。後世のギリシア人が(といってもBC 8世紀以降のギリシア人のことですが)伝える神話・伝説には、ヒッタイトの姿は全く現れないのですが、BC 13世紀頃のヒッタイトの文書には、ギリシア(の少なくとも一部と思われるアヒヤワ)とヒッタイト小アジアの西側の国々に対する影響力をめぐって争っている様子が記述されています。ここのところが伝説と歴史で大きく違っています。BC13世紀やそれ以前のギリシア人がヒッタイトと直接、交渉を持っていたことを知って私は驚きました。


ところで、アヒヤワというのは学者の説では、ホメーロスが英雄時代のギリシア人のことをアカイア人と呼んでいますが、そのアカイアのことを指している、ということです。私は当初アヒヤワとアカイアという音の類似だけでは両者を同一視するのは難しいと思っていましたが、調べてみるとヒッタイトの文書には「アヒヤの男アタルシア」という人物が登場して、これはアトレウスというギリシア神話に登場する人物と同じ名前だろうとか、「アヒヤワ王の弟(あるいは兄)タワガラワ」という人物が登場して、これはエテオクレースという、こちらもギリシア神話に登場する人物と同じ名前だと推定されている、という説を知ると、もうアヒヤワはアカイア、すなわちギリシアのことだ、と思えてきたのでした。

  • ここでタワガラワ(Tawagalawa)という名前とエテオクレース(Eteoklees)という名前にはあまり類似性がないと思われるかもしれません。実はこの時代のギリシアではエテオクレース(Eteoklees)はエテウォクレウェス(Etewoklewes)と発音されていたことが線文字Bというこの時代のギリシア文字の解読によって分かっていたのです。エテウォクレウェス(Etewoklewes)から頭のエ(E)と最後のス(s)と取ってみるとテウォクレウェ(Tewoklewe)になり、母音を全てア(a)にするとタワクラワ(Tawaklawa)になり、ヒッタイト文書に登場するタワガラワ(Tawagalawa)とほぼ同じになります。


このように伝説に登場するギリシア人の名前と似た名前がヒッタイトの文書に登場するのですが、出来事の流れについてはギリシアの伝説とヒッタイトの同時代文書ではほとんど似たものがありません。残念ながら、伝説はほとんど歴史を反映していないように思えます。たとえば前述のアタルシア(=アトレウス)については、ヒッタイト側の記録によれば以下のことが書かれているそうです。


アタルシアは小アジアの西側で100台の戦車と歩兵を率いて軍事行動に出、ヒッタイトの影響下にある国々を攻撃しました。おそらくミーレートスヒッタイト文書では「ミラワタ」)がアタルシアの拠点だったようです。アタルシアはアルザワ国の王子らしいマドゥワッタを攻撃して王国から追放しました。マドゥワッタはヒッタイトの宮廷に逃れ、ヒッタイト王アルヌワンダ1世は彼をズィパスラ(その位置は分かりません)の王に据えました。アタルシアは再びマドゥワッタを攻め、今回はマドゥワッタは逃げ遅れて捕えられてしまいます。この地域でのアヒヤワ軍の活動を憂慮したヒッタイト王は将軍キスナプリに軍をつけてこの地に派遣しました。両者の戦いののち、アタルシアは軍を小アジア本土から、おそらくはエーゲ海東海岸に近いどこかの島に撤退させました。アタルシアの軍の撤退後、マドゥワッタは王位に復帰しました。

(上:アルザワの位置)



(上:BC 1200年のギリシアの歩兵たち)


一方、ギリシア神話に登場するアトレウスは、ギリシアのペロポネーソス半島にあるミュケーナイの王でしたが、軍を率いて小アジアに行ったとは伝えられていません。彼について伝えられているのは、弟との間の凄惨な王位争いの伝説です。


私は子供の頃、伝説の実在を信じてトロイアを発掘したシュリーマンの話に心を打たれて、伝説の背後にどんな歴史が潜んでいるのだろうと考える習慣が、気がつけば長いこと続いていました。しかし、今回(よりによって)トロイアを調べたことによって、伝説は歴史とはほとんど異なる、ということを知ることになってしまいました。