神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

トロイア(14):アテーナー神殿

それでは、ペルシア王クセルクセースがトロイアアテーナー神殿に千頭の牛を捧げたところに戻ります。このあとクセルクセース率いる大軍はアテーナイ沖のサラミースでギリシア連合軍に惨敗します。そのことを踏まえた上で先に引用したヘーロドトスの記事を見直してみると、それの予兆らしきものが書かれていることに気づきます。まず、トロイアに到着したとたんにペルシア軍は「雷を伴った旋風」に襲われています。

・・・・やがてイダの山に到着すると、そこから道を左手にとってイリオン(トロイア)の地に入った。遠征軍はここで先ず、イダ山麓に夜営中、雷を伴った旋風に襲われ、かなり多数の兵を失った。


ヘロドトス著「歴史」巻7、42 から

それから、トロイアアテーナー神殿に参詣したあとに、軍内にパニックが発生したのでした。

 軍がスカマンドロス河畔に到着したとき――なおこの河は、ペルシア軍がサルディスを発って征旅について以来、河水が飲み干されて、兵士および家畜の飲料を十分に供給できぬようになった最初の河であったが――、さてクセルクセスはこの河に達すると、かつてのプリアモス王の城を是非見物したいと思い、城山に上った。見物を終え、この地にまつわるさまざまな物語を聞いた後、トロイアのアテナ女神に牛千頭を屠って供え、またマゴスらは往時の英雄たちの霊に供養の酒を灌いだ。そのことがあった直後、陣営は突如異常な恐慌に襲われたのであった。・・・・


ヘロドトス著「歴史」巻7、43 から

古代ギリシアではパーンという、獣の下半身を持つ神が、群集にはげしい恐れを起こすと考えられていて、そのような恐れをパニコンと呼んだそうです。これがパニックの語源です。ヘーロドトスはこの記事でパーンについては何も述べていませんが、「突如異常な恐慌に襲われた」というのにパーン神の働きを感じていたと想像します。




(左:パーン)


この出来事からすると、トロイア詣でというのは縁起が悪いと考えられそうなものですが、のちのペロポネーソス戦争の際に、スパルタの海軍提督ミンダロスもクセルクセースの真似をして、トロイアアテーナー神殿に犠牲を捧げています。彼はその頃、ヘレースポントス海域でアテーナイ軍と戦っていましたが、そこで戦死してしまいます。


こう考えるとますますトロイア詣では縁起が悪そうな気がするのですが、このあとにもっと有名な人物がトロイアアテーナー神殿に参詣しています。すなわちBC 334年、アレクサンドロス大王が、小アジアに上陸してペルシア軍を蹴散らしたのちに、トロイアアテーナー神殿に参詣したのでした。

(上:女神アテーナー

・・・・ヘレスポントス(ダーダネルス)を渡り、イリオン(トロイア)に達し、アテナに犠牲を捧げ、英雄たちに灌酒の祭儀を行なった。アキレウスの墓に膏を塗り、慣習に従ってヘタイロイとともに裸になって競技を行ない花環をささげ、彼が生きている時には誠実な友(パトロクロス)、死んでからは偉大な報告者(ホメロス)にめぐまれたことは幸いであると賛辞をささげた。歩きまわって町の様子を眺めている時にある人が、アレクサンドロス(パリス)の琴を見たいかとたずねると、それにはさっぱり関心がない。アキレウスが勇敢な人々のほまれや行動をたたえた琴をさがしたいといった。



プルータルコス「アレクサンドロス伝」 15より

アレクサンドロスは家庭教師アリストテレースの影響でホメーロスの「イーリアス」を愛読しており、遠征にも「イーリアス」を携行していたほど、「イーリアス」の世界に愛着を持っていたのでした。それに、アレクサンドロスは伝説によれば母方から「イーリアス」の主人公である英雄アキレウスの血を引いていました。すなわちアレクサンドロスの母オリュンピアスはエーペイロス王ネオプトレモスの娘でしたが、この王家の始祖はアキレウスの息子ネオプトレモスとされていたからです。これらのことから、アレクサンドロスは「イーリアス」に登場するアキレウスを崇拝していたのでした。


このあとアレクサンドロスとその軍隊はペルシア王国を滅亡させ、その領土を征服して東へ東へと進軍し、ついにはインドまで到達するのでした。その後、兵を戻して帰路の途中、バビロンで熱病に倒れて32歳の若さで亡くなります。BC 323年のことでした。アレクサンドロスは、トロイアアテーナー神殿を世界最大の規模で再建する計画を持っていた、とディオドロス・シキュロスが伝えています。その計画はアレクサンドロスの早すぎる死によって実現しなかったのでした。