神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

トロイア(8):ヒッタイト王国の動乱

トロイア戦争をBC 1200年頃と考えて、その頃のヒッタイト王国ヒッタイト帝国と書かれる場合もあります)の歴史を調べたところ、この頃にヒッタイト王国が滅亡していることに気づきました。トロイアの滅亡とヒッタイト王国の滅亡の間には、それほど年代差がないようです。トロイアヒッタイトも同じ原因で滅亡したのでしょうか? あるいは、トロイアには今までヒッタイトという強力な後ろ盾があったのが、ヒッタイトが滅んでしまったためにその後ろ盾がなくなり、ギリシア人がそれをチャンスと見てトロイアに攻め込んだのでしょうか?


ヒッタイト語の文書には、ウィルサ(Wilusa)という地名が出てきます。これがトロイアのことを指しているという説があります。最近では、この説を支持する学者が多いようです。トロイアの別名イーリオスは、ミュケーナイ時代の(つまりトロイア戦争の時代の)ギリシア語ではウィーリオスであったと推定されていて、これをウィルサと結び付けたものです。


もう少しヒッタイト王国の滅亡について見てみましょう。そのために日本のウィキペディアの「シュッピルリウマ2世」の項を見てみます。



(左:シュッピルリウマ2世のレリーフヒッタイト王国の首都ハットゥシャのもの。)

シュッピルリウマ2世というのは、ヒッタイト王国滅亡時の王で、その在位期間はBC 1214年頃~1190年頃です。ここで、在位の終りの年代1190年頃というのが気になります。この頃にトロイアもまた滅んだのでした。日本のウィキペディアの「シュッピルリウマ2世」の項によれば、

彼の残した文字史料には、ヒッタイト帝国の滅亡を予見していたような文言はみあたらない


日本のウィキペディアの「シュッピルリウマ2世」の項より

とあります。そうすると滅亡は繁栄のさなかに(あるいは表面的な繁栄のさなかに)突如起きたようです。

彼は陸海でアラシア(キプロス島)を奪おうとする敵と戦い勝利を収めていたが、その敵(「海の民」?)については詳しく言及されていない。また南西・南東アナトリアでの軍事行動とその成功についても言及している。その敵の一つはヒッタイト帝国内のタルフンタッシャであり、その支配者はおそらく彼のいとこおじにあたる副王クルンタであった。


同上

シュッピルリウマ2世は軍事的な成功を収めていたのでした。


しかし、これらは国内向けの宣伝であったようです。ヒッタイト支配下にある、ウガリットという都市国家から出土した文書には、シュッピルリウマ2世による、繁栄とは相いれない緊急時を想像させるような指令が記されています。

ウガリット文書にはヒッタイトの大王からウガリット王に対して食料を積んだ船を送るよう指令したものもあり、その締めくくりにある「生き死にかかわる」という文言に、その切迫振りが窺える。ハットゥシャの遺跡では近年巨大な地下式穀物サイロが多数発見されており、穀物確保は帝国維持の重要な問題だった。


同上

また、ヒッタイトの同盟国だったエジプトは、ヒッタイトに対して食糧援助を行ったようです。

エジプトのファラオ・メルエンプタハ(在位:紀元前1212年‐1203年)は、ヒッタイト帝国に対する食糧援助について言及している。


同上

食糧だけでなく、ウガリットの軍隊もシュッピルリウマ2世によってあるいはアナトリア南岸に、あるいはヒッタイト本国に、移動させられています。防衛力を削がれたウガリットはその後まもなく、何者かによって破壊されています。その破壊を行なったのは、謎の多い「海の民」であったとされています。この「海の民」がウガリットを滅ぼしたあと、ヒッタイトも滅ぼしたのでしょうか? そしてその後トロイアもこの「海の民」によって滅ぼされたのでしょうか?

(上:「海の民」と戦うラムセス3世ラムセス3世はメルエンプタハより後の王。)


ここから分かるのは、トロイアの滅亡は孤立した事件ではない、ということです。この前後にヒッタイト王国も滅亡し、ウガリットも滅亡しました。エジプトは滅亡することはありませんでしたが、このあと長い低迷期に入ってしまいます。そして伝説によればトロイアに勝利したギリシア諸国も動乱期に入り、考古学的資料もそのような混乱を裏付けています。ギリシアの詩人ヘーシオドスは、この時代の変化を英雄の時代が終わり、鉄の時代が始まったのだと捉えました。

クロノスの御子ゼウスは、またも第四の種族を、
豊穣の大地の上にお作りなされた――先代より正しくかつ優れた
英雄たちの高貴なる種族で、半神と呼ばれるもの、
広大な地上にあってわれらの世代に先立つ種族であったのじゃ。
しかし、この種族も忌わしき戦(いくさ)と怖るべき闘いによって滅び去った――
(中略)
あるものは髪美(うる)わしきヘレネーのために、
船を連ねて大海原を越え、トロイエーに渡って果てた。
(中略)
今の世はすなわち鉄の種族の代なのじゃ。
昼も夜も労役と苦悩に苛まれ、その熄(や)む時はないであろうし、
神々は苛酷な心労の種を与えられるであろう。


ヘーシオドス「仕事と日」 松平千秋訳 より