神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

カルキス(12):アリストテレース

ペロポネーソス戦争の末期にカルキスを始めとするエウボイア島の諸都市はアテーナイの支配から離脱することに成功しました。BC 404年にはアテーナイがスパルタに降伏します。


それからずっと時代を下ったBC 323年、古代ギリシアの大哲学者にして大科学者のアリストテレースは、アテーナイを離れてカルキスに移住しました。それは彼が61歳の時のことで、翌年彼はカルキスで生涯を終えます。それを記念して現代のカルキス(=ハルキダ)にはアリストテレース銅像があります。

なぜ彼がカルキスで晩年を過ごしたかというと、ここには彼の母方の家があったからです。アリストテレースの母親パイスティスはカルキスの出身でした。その彼女がカルキディケ半島の東側にあるスタゲイラという小さな町に移住し、そこでマケドニア王の侍医を勤めていたニーコマコスという男と結婚して、アリストテレースを産んだのでした。スタゲイラはエウボイア島の南に位置するアンドロス島の人々によって建設されたイオーニア系の植民市でしたが、のちにカルキスからも多くの植民者が渡っていったため、スタゲイラにとってはカルキスも半ば母市の扱いだったようです。


アリストテレースの父親ニーコマコスはスタゲイロスの出身でした。このニーコマコスは医者だったのですが、その妻のパイスティス(アリストテレースの母親)の実家も医者の家だったそうです。カルキスとはあまり関係はありませんが、ニーコマコスが医者だったということと関係のある言い伝えがあって、彼は医神アスクレーピオスの息子マカーオーンのそのまた息子であるニーコマコスの子孫だということでした。マカーオーンは医師兼戦士としてトロイア戦争に参加し、負傷した武将の手当てをして活躍していることが、ホメーロスの「イーリアス」に記されています。

「タルテュビオスよ、一刻も早くマカーオーンを此処へ招(よ)んできてくれ、
あの申し分なく優れた医師(くすし)、アスクレーピオスの息子だという武士を、
アレースの伴(とも)なるアトレウスの子、メネラーオスを診て貰おうから。
何者か、トロイエー人かリュキア人中 弓矢の業に達した者が、
矢を射て彼をうったのだ。己が身の誉(ほま)れ、我々が嘆きともして」
 こう言うと、承(うけたまわ)る伝令は 一議に及ばずさっそくにも
青銅の帷衣(よろい)を着けたアカイアの軍勢の方へ出かけていって、
マカーオーン殿をたずねさがし、彼が佇(たたず)んでるのを
見つけたが、両脇には 楯をもつつわものどもの いかめしい幾列(つら)ねが
控えていた・・・・


ホメーロスイーリアス」第4書 呉茂一訳 より


アリストテーレースの多数の著作のひとつに「ニコマコス倫理学」というものがありますが、これはアリストテレースの父親ニーコマコスの名前を取ったのではなく、アリストテレースの息子の名前を取ったものです。アリストテレース倫理学に関する講義録が、その息子のニーコマコスによって編纂されたために、こういう名がついています。アリストテレースのこの息子は、祖父のニーコマコスの名を継いで名付けられたわけです。古代ギリシアでは祖父の名を継ぐということはよくありました。


アリストテレースに話を戻します。アリストテレースはBC 367年、17歳で田舎のスタゲイラから哲学者プラトーンを慕ってアテーナイに向い、プラトーンの学園アカデメイアに入門したのでした。それから20年間、アカデメイアで学問に励んだのち、師プラトーンの死をきっかけとしてアカデメイアを出て、最初は小アジアのアッソスに移住し、その後レスボス島のミュティレーネーに居を移して研究を続けました。その後、昔からのマケドニア宮廷との縁により、マケドニア王フィリップ2世から息子の家庭教師として宮廷に招かれました。その息子というのがのちに大王と呼ばれるアレクサンドロスです。やがてアレクサンドロスが即位すると、アリストテレースは家庭教師の任を解かれ、アテーナイに戻ってきました(BC 337年)。前年のカイロネアの戦いでマケドニアはアテーナイを破り、アテーナイはすでにマケドニア支配下にありました。そのような状況下でアリストテレースはアテーナイに戻り、自分の学説を教える学園リュケイオンを創設しました。一方、若きアレクサンドロス大王は東征してペルシア王国を滅ぼし、遠くインダス川流域まで征服するという大事業を達成しつつありました。この頃は大王の威光もあってアテーナイにおけるアリストテレースの地位は安定したものでした。しかしアレクサンドロスがはるか彼方のバビロンで熱病のために32歳の若さで急死すると、アテーナイでは今まで抑えられていた反マケドニアの政治運動が勢力を伸ばし、マケドニアの支配からの離脱を試みるとともに、アレクサンドロス大王の家庭教師だったことから親マケドニア派と見なされたアリストテレースを、涜神罪で告訴しました。実際にはそれはこじつけのような告訴でした。アリストテレースは「アテーナイ市民がふたたび哲学を冒涜することを避けるために」アテーナイを去り、母方の実家を頼ってカルキスに移住したのでした。しかし、カルキスに移住してからのアリストテレースの生活は1年より少し足りない期間しかありませんでした。ここで彼は病を得て亡くなりました。


アリストテレースの終焉のところで、私のカルキスについての話は終わりにします。