神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

トロイア(10):ヒッタイト文書におけるウィルサ(2)

昨日の記事は、私が最近知ったことを整理出来ないままに載せてしまいました。今日は昨日の記事を見直して、結局ヒッタイトの諸文書からウィルサ(=トロイア)について何が分かったのかを、まとめてみたいと思います。昨日の4つの文書の内容をまとめると、以下のようになると思います。ここではウィルサのことをあえてトロイアと置換えて書いてみます。

  • トロイアは少なくともBC 1320年頃からヒッタイトに服属する国であった。
    • (「アラクサンドゥ条約」より)
  • トロイアがピヤマ・ラドゥに攻撃された際、ヒッタイトの軍勢がその救援に赴いた。
    • (「マナパ・タルフンタ書簡」より)
  • ヒッタイトとアヒヤワ(=ギリシア?)はトロイアをめぐって対立したこともあった。
    • (「タワガラワ書簡」より)
  • ヒッタイト王ムワタリ2世はウィルサ王アラクサンドゥと条約を結んだ。
    • (「アラクサンドゥ条約」より)
  • BC 1250年頃、ヒッタイトとアヒヤワはトロイアを巡って戦った。
    • (「タワガラワ書簡」より)
  • その10年ぐらい後、トロイア王は何らかの理由で王位を失い、ミラという国に亡命していたか捕えられていた。ヒッタイトはミラに対してこの人物を引き渡すように要求した。ヒッタイトは彼を再びトロイアの王にする意図だった。
    • (「ミラワタ書簡」より)

こうやって書き出しても、出来事の流れがよく見えてきません。とはいえ、BC 1280年頃のアラクサンドゥ条約はおそらく、トロイアをアヒヤワ側ではなく自陣営に留めておこうとするヒッタイトの策のひとつだったのだと推測出来ます。


ひょっとすると、ヒッタイトとアヒヤワのどちらもトロイアにとって厳しい主人であると考えたトロイア王は、ヒッタイトでもアヒヤワでもない第3国に頼ったのかもしれません。そしてそれがミラという国だったのかもしれません。昨日の記事では書かなかったのですが、「ミラワタ書簡」の宛先である侯王は、ミラという国のクパンタ・クルンタという名の人物であると推測されています。ミラワタ書簡では、ヒッタイト王がこの侯王に対してウィルサからの王位僭称者をヒッタイトの使者に引き渡して、そこで王として再即位させることが出来るようにせよ、と要求しています。「王位僭称者」と文書で呼ばれているということは、この時点でウィルサには別の王が即位していることを推測させます。その王は、アヒヤワによって立てられた王なのかもしれません。しかし、ヒッタイトにとっては以前放逐した王のほうが利用価値があったために、ミラに亡命している元王をヒッタイトは使者をミラに遣わして迎えさせたのかもしれません。ここに書いた全ては、私の単なる想像です。


では、それからどんなことが起こったのでしょうか? さらに想像を進めてみます。ヒッタイトは武力を使ってこの人物をトロイアの王に復帰させました。そして、復帰したトロイア王はヒッタイトの圧力でアヒヤワに対して敵対政策をとり、そのためアヒヤワはトロイアに対して不満を募らせてました。しかしヒッタイトがバックアップしているので、アヒヤワはなかなかトロイアに手が出せないまま、数十年が過ぎました。ところがBC 1190年頃になるとヒッタイトが弱体になったので、これを好機と見たアヒヤワ、すなわちギリシアトロイアを攻撃した、これがトロイア戦争だったのではないでしょうか。もちろん、これは単なる想像に過ぎません。