神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

トロイア(12):遺跡の層(VIIbからVIIIまで)

伝説によれば、トロイア戦争後のトロイア無人になったのでした。トロイアの人々は殺されたか、トロイアを脱出したか、捕虜としてギリシア兵に連行されたかのいずれかで、トロイアに残る人々はいなかったことになっていました。しかし、考古学が明らかにするところでは、BC 1190年頃のトロイア陥落ののちしばらくしてトロイアは再建されたそうです。これは現代ではトロイアVIIb1と呼ばれています。このトロイアVIIb1はトロイアVIIaの文化を引き継いでいるので、トロイア戦争の生き残りによって建設されたものと推定されています。しかしトロイアVIIb1は50年ほどで終わりを告げます。


トロイアVIIb1を終わらせたのが他の人々による侵略だったのかどうかよく分かりません。この頃はギリシア本土でも次々に宮殿が破壊された時代に当っています。そのため、トロイアVIIb1を終わらせたのは少なくともギリシア人ではなさそうです。こうして始まったのがトロイアVIIb2です。この時代は100年続いたあと火災で崩壊しました。次にトロイアに居住したのは、明らかに鉄器文明を持った人々でした。この人々がどんな人々だったか分かりません。ギリシアの伝説もこれについては何も語りません。ギリシアの伝説ではトロイア戦争後のトロイアについては何も述べていないのです。この人々が建設したのがトロイアVIIb3です。トロイアVIIb3の人々は、理由は分からないのですがBC 950年頃この町を放棄しました。その後、BC 750年頃までトロイア無人だったようです。トロイアVIIb3が放棄された頃は、その南の方ではアイオリス人が、さらにその南ではイオーニア人が西からやって来て多くの植民市を建て始めた頃です。トロイア戦争の伝説は、トロイア無人だったBC 950~750年頃に形作られつつあったのではないでしょうか? 小アジアスミュルナが出身地であるとも言われているホメーロスは、この頃、廃墟になったトロイアを見ているのではないでしょうか? コルフマン教授は、ホメーロストロイアのことを「神聖なイーリオン」とも呼んでいるところから、トロイア無人であっても神殿だけは維持されていた可能性を指摘しています。



ホメーロス



BC 750年頃から新しいトロイアを建設した人々は明らかにギリシア人で、それもUSAのWikipediaの「トロイア」の項のサブ項目「暗黒時代のトロイア」によればイオーニア人であることが分かっています。これがトロイアVIIIです。ここで私には疑問があります。この頃、同じギリシア人でもアイオリス族に属するミュティレネーが、トロイアより海岸沿いの場所にシゲイオンという植民市を建設していますトロイアはアイオリス人によって植民されなかったのでしょうか?


シゲイオンはミュティレーネーによって、かつてのトロイアと同じ役割を果たすことを狙って建設されました。つまり、かつてのトロイアと同じようにヘレースポントス海峡(今の、ダーダネルス海峡。ちなみにこの名前はトロイア人の別名ダルダノイに由来しています)を支配することを目指したのでした。このシゲイオンはかつてのトロイアから5kmぐらいしか離れていません。トロイア戦争の頃に比べると、この頃には川の堆積によって海岸線が西に移動し、トロイアは海から離れてしまっていたのでした。そのためトロイアの地理上の重要性は減少していました。その小さな、重要性の少ないトロイアにイオーニア人がやってきても、アイオリス人たちは気にも留めなかったのかもしれません。シゲイオンのほうは、その戦略的な位置関係のためBC 600年頃にはアテーナイがミュティレーネーから奪おうと何度も攻め込み、その結果、シゲイオンはアテーナイに奪い取られてしまいます(「ミュティレーネー(11):シゲイオンのゆくえ」参照)。ミュティレーネートロイアとシゲイオンの近くにアキレイオンという町を建ててアテーナイに対抗しました。


しかしBC 546年より少しのちにペルシアがこのあたり一帯を占領したことにより、アテーナイの支配は終わりを告げます。トロイアはおそらくペルシア支配下ミュティレーネーのさらにその支配下にあったと想像します。この頃のトロイアは歴史にほとんど登場しません。歴史に登場するわずかな例は、BC 481年にギリシア本土征服のために進軍していたクセルクセース王率いるペルシアの大軍が、トロイアを通過したことでしょう。

・・・・やがてイダの山に到着すると、そこから道を左手にとってイリオン(トロイア)の地に入った。遠征軍はここで先ず、イダ山麓に夜営中、雷を伴った旋風に襲われ、かなり多数の兵を失った。
 軍がスカマンドロス河畔に到着したとき――なおこの河は、ペルシア軍がサルディスを発って征旅について以来、河水が飲み干されて、兵士および家畜の飲料を十分に供給できぬようになった最初の河であったが――、さてクセルクセスはこの河に達すると、かつてのプリアモス王の城を是非見物したいと思い、城山に上った。見物を終え、この地にまつわるさまざまな物語を聞いた後、トロイアのアテナ女神に牛千頭を屠って供え、またマゴスらは往時の英雄たちの霊に供養の酒を灌いだ。そのことがあった直後、陣営は突如異常な恐慌に襲われたのであった。・・・・


ヘロドトス著「歴史」巻7、42~43 から

この記述からすると、トロイアはすでに遺跡の扱いだったのだと思います。ペルシア王クセルクセースは観光旅行のようにかつてのプリアモスの城を見物し、そして「この地にまつわるさまざまな物語を聞いた」のでした。そしてそこには女神アテーナーの神殿があったと記されています。この神殿こそ(事実はどうであれ)その昔、伝説のトロイア王イーロスの治世に、天から降りてきた聖像パラディオンを祭っていたかつてのアテーナー神殿であると、きっと従軍していたギリシア人の誰かがクセルクセースに説明したことでしょう。クセルクセースはその物語に現れるアテーナー神殿を尊重したためか、牛千頭を生贄に供えたのでした。